源五右衛門をとりまく人―乾徳寺
忠臣蔵の数々の名場面のうちの一つに、片岡源五右衛門が、田村右京大夫邸で浅野内匠頭と今生の別れをつげる場面がある。 テレビや映画では、桜の花がしきりに散る中を、内匠頭が廊下を通りすぎてゆく。よびとめられて庭を見ると桜の木の下に片岡源五右衛門が控えている。二人は、言わず、語らず無言のうちに別れをつげるという場面だ。
飯尾精「実録忠臣蔵」によると、麻裃姿の内匠頭が切腹の場所に歩いてゆくのを、下から源五右衛門が平伏して見送り、主従の目と目があうというような劇的な別れはなかったとしている。 今生の暇乞いにひとめでもよいから会いたいと右京大夫邸にかけつけてきた源五右衛門に対し、検使役の副使多門伝八郎が、「内匠頭が切腹の申し渡しを聞いている間に、その家来を無腰で次の間に呼び、他所ながら対面させてはどうか、ひとめぐらいは今生の慈悲であるから、拙者の一存で承知いたそう」と言った。伝八郎の情けある取り計らいで、源五右衛門は次の間に畏まっていた。飯尾精氏は、源五右衛門が、切腹を言い渡される主君と次の間で最後の別れをつげたという説である。 この説の出典は、おそらく『多門伝八郎筆記』であろう。 野口武彦『忠臣蔵――赤穂事件・史実の肉声』によれば、実際に内匠頭と源五右衛門が無言のうちに永訣の別れをつげるということはありえなかったとしている。
「切腹の直前、田村邸に赤穂藩から片岡源五右衛門という家士が内匠頭に今生の別れをするために訪ねて来たという話が『多門伝八郎筆記』には割り込んでいる。多門は『明日は退役を覚悟致し』てこの主従を面会させたと記している。田村家の記録にはもちろん残っていない。それどころか、『杢助手控』には、その期間邸内には何人も立入りさせないという厳命があったとある。浅野家側には、内匠頭の切腹が済んでから弟の浅野大学のもとへ、死骸を引き取りに来るようにとの通達があった。首と胴体が別々になって庭先に置かれていた死骸を棺に納めた家臣たちのひとりが片岡源五右衛門である。多門が言い立てている時刻には、伝奏屋敷の片付けと築地藩邸からの立退きで家中は上を下への騒ぎであり、片岡も忙殺されていたはずである。そして何よりも、赤穂側の史料にこんな大切なことがまったく書いてないのである。」
野口氏によれば、田村右京大夫邸における内匠頭と源五右衛門の別れの場面は、もともとなかったとする説である。 源五右衛門が内匠頭に別れをつげたか、どうかという一事にもさまざまな議論がなされるほど忠臣蔵の人気が高いということであろう。
内匠頭は田村右京大夫邸で、片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門にあてて、 「此段兼て為知可申候へ共、今日不得止事候故、為知不申候、不審に可存候」 という遺言を残している。
源五右衛門は、内匠頭から遺言を与えられるほど深い信頼をうけていた。 少年の頃から内匠頭に小姓として仕え、後には三百石取りの御用人として側近く仕えた。内匠頭が切腹した後、源五右衛門は、十郎左衛門と共に泉岳寺に行き、主君の墓の前で落飾している。 討ち入り時には、表門隊の邸内突入班として活躍した。
近松茂矩『昔咄』には、片岡源五右衛門と名古屋との関わりが次のように記されている。
浅野家に熊井といふ者あり。其妻は、高源院様御年寄となり来りしゆへ、惣領熊井十次郎は六歳より、瑞龍院様御側へ出、後御小姓になり、御供番等を勤めぬ。次男は片岡六右衛門とて、浅野内匠殿へ仕へぬ。十次郎、子多し。 惣領源五右衛門妾腹なりしゆへ、伯父片岡六右衛門方へ養子に遣し、家督続いて片岡源五右衛門と称す。甚だ出頭せり。六右衛門は隠居し、娘一人つれてなごやへ来り、熊井長左衛門に改む。其娘、中根清太夫に嫁して、今、清太夫、次郎左衛門を生みぬ。
内匠頭大変の時、源五右衛門、始めから義心鉄石の如くにて、四十七人のなかにて勝れたる者なり。夜討の一両日前に、中根次郎左衛門が方へ、他国へ趣く故、暇乞のためと称して来りぬ。次郎左衛門此時、岩之丞様御小姓にて、江戸に詰めてゐたり。則ち御抱伝兼松伝鉢相伴ながら来りて、咄せし。甚だ勇壮なる躰にて、謡などうたふて、心よく咄してかへりしが、是ぞ永訣なりし。娘壱人ありて、なごやへ引取りしが、忠義の者の娘なればとて、津金善次右衛門こひうけて妻とせり。今清六母也
片岡源五右衛門の遺髪が名古屋に届けられ、乾徳寺に葬られた。 今、その墓は平和公園の中にある。