近松勘六・奥田貞右衛門―本龍寺
近松茂矩の『昔咄』の中に次のような記述がある。
内匠頭殿に予が麁流の者多く居たりし。大変の時、近松勘六・弟奥田定右衛門兄弟は忠義全ふして死せり。其外近松貞六・同新五などは、さんざん臆病をかまへて逃走り、氏族の面をけがしぬ。剰へ姓名をかへて、奥野将監などいふ卑怯者と共に名護屋に隠れ住むとやらん。天地不容の不忠人……
近松勘六は馬廻役の二百五十石、祖父の伊看は、法眼位を持つ名医であった。父親の行正は、山鹿素行の弟子である。母親とは勘六が幼いころ死別した。父親は、阿波蜂須賀家の仁尾清右衛門の娘を後妻にむかえた。勘六には四人の異母弟妹がいるが、その一番上が、のちに奥田孫太夫の養子となった貞右衛門である。
吉良邸に討ち入った時、勘六は泉水の橋の上で、吉良方と切りあった。雪の積もる橋の上で足をすべらせ、泉水の中に落ちてしまった。危ういところをかけつけた同士によって助かったが、足をけがしてしまった。無事、本懐を遂げて、泉岳寺にひきあげる時、弟の貞右衛門が自分の小袖を脱いで兄に着せ、肩をかして歩いた。見る人は、その姿に感泣したという。
勘六は、誰からも好かれていた。下僕の甚三郎は、討ち入りの時に、見えかくれして勘六の後を追った。吉良邸の屋敷の前で、甚三郎は討ち入りが終るのをじっと待っていた。無事上野介の首をあげ、義士が出てくると、ひとりひとりに餅とみかんを配って歩いたという。
名古屋の近松家と赤穂の近松家とは縁戚関係にあたる。元禄十六年(一七〇三)二月二十九日の『鸚鵡籠中記』には
熊井十次郎遠慮御免。中根清太夫も自分遠慮せしが今日から罷出。近松幸安父子も遠慮なくす罷出由。町奉行から申渡之、赤穂夜討之事に付てなり。
と記してある。片岡源五右衛門の父親、熊井十次郎。中根清大夫も源五右衛門の親類。近松勘六の縁者が近松幸安で、討ち入りと共に謹慎の処分をうけたが、二カ月余で処分が解かれた。
尾張藩士の近松茂矩の逸話が『天保会記』に載っている。彼は毎朝手水をつかい、袴を着て、二階の神棚の天照大神宮、熱田大神宮に手をあわせて「武運長久を御守り下さい」。また、秋葉の神札を拝み「火の元の僕を頼みます」。その後、稽古場に行き、武芸の型を五本ずつつかって、その後朝飯を食べた。生涯の間、この習慣は一日も変わらなかった。
茂矩の親友に小宮山宗法がいた。ある日、宗法に対して「一大事をお願いしたい。聞いて下さるのか」と言った。 「先ず話して下さい。そうでなくては、ひきうけることができません」 「金子百両を貸して下さい。」 「百両は大金なので、番頭とも相談しなければならない。今すぐには間にあわない」 「いや、今借りるのではない。もし軍があるならば、その時の用に貸すと約束してほしい」 「それならば、たいそう簡単なことです。軍がある時には御用だてしましょう」 「安心しました。今宵からは安心して眠れます」と喜んで言った。 翌日、酒肴を宗法に贈って、感謝し、それから盆と暮れには必ず酒肴を生涯、贈りつづけた。
こんな逸話のある近松茂矩だけに、縁者の近松勘六には熱烈な思い入れがある。勘六のために『赤穂盟伝』を編集した。 それに対し近松貞六・新五に対しては「氏族の面をけがしぬ」と手ひどくののしっている。名前をかえ、奥野将監と共に名護屋に隠れ住んでいたという。 近松茂矩の墓は、本龍寺にある。