沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第17回「ひさやをつけてそ人した久屋町―金毘羅宮」

ひさやをつけてそ人した久屋町―金毘羅宮

久屋大通開通にともなって久屋大通の東の地に移された現在の金毘羅宮

久屋大通開通にともなって久屋大通の東の地に移された現在の金毘羅宮

久屋町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次のように記している。

慶長年中清須の府にて何と云町より引越、当地へ来りしや未詳。其後寛永の頃君主敬公此町御通り被遊候節、町名は何と云ぞと御尋に付、干物町と申由御答申上候へば、其時の御諚に末に繁昌すべき所なればとて、直に久屋町と御附被遊、今より町名改むべきとのおほせ事にて、こは市中の者でも難有奉存、夫より久屋町と号云々。

寛永年間(一六二四~一六四三)初代藩主、義直が、この町を通った時のことだ、「町名は何と呼ぶのか」とお尋ねになった。「干物町です」とお答えした。「これからますますこの町は、繁昌しなければならない」と言われ、その場で「今から町名を改めて、久屋町にせよ」と仰った。それより久屋町と呼ぶようになった。 久屋町の名付け親は、初代藩主の義直であった。

元和年間(一六一五~一六二三)、清須から越してきた寺が瑠璃光寺だ。この寺の本尊の薬師如来は、春日井郡阿原村にあったものだ。常庵という僧が護持仏として肌身離さず持っていたものである。 ある夜、常庵の家に盗人が入って来て、この尊像を背負って逃げ去ろうとした。その時、尊像が盗人の背中で大きな声で「常庵、常庵」と叫んだ。盗人は驚き、肝を冷やして道端に仏像を捨てて逃げ去っていった。そのことを聞いた村人が、像を敬って一宇を建立して安置した。それが故あって瑠璃光寺の本尊となった。

金毘羅宮が、この寺の別殿として建立された。久屋大通が開かれることにより、金毘羅宮は通りの東の地に移された。金毘羅宮の地にあった樹木には、今も注連縄が張られ、テレビ塔の下にそびえ立っている。

『感興漫筆』に、明治維新によって没落した武士の子女の話が載っている。

職工の婦女子は久屋職工科の卒業生徒を用ゆる也、然れども極貧にして右の学に就く能はざる者は、教師も一人雇入れあれば、始めより教えしむる事も有べしと云、織成の品は横浜又蝦夷地へ送る也、尾三は木綿の品よくて低価なれば、其品も低価に出さば、後には陸軍省の御用品をも織出すべき歟といふ、此業、至て薄利のものなり。婦女子の業、一反を織成して拾五銭なり、善く織る者は一日に織るなり。

明治十一年(一八七八)のことである。久屋町に職工を養成する工場があった、そこで零落した武士の娘に機織を教えた。よく織る者は一日に一反を織って十五銭かせいだという。時代の流れを感じさせる逸話だ。 時の流れに乗る人、流れの中に沈んでゆく人、時代が変遷するときには、必ず起こることだ。 武士の娘が懸命になって機を織っている、なんとも、もの悲しい話だ。