いつはりいはぬ本町―本町公園
東西の中心の道路が広小路ならば、南北の中心道路は本町通であった。名古屋の街と熱田の宿とをつなぐ道路で、この道を多くの人が往来した。 戦前には、服部時計店の時計が通りにそびえ、しゃれた街路灯が、通りを照らしていた。名古屋で最初に舗装道路になったのも、ガスや水道が敷かれたのも本町通である。
昭和四年に、昭和天皇が名古屋に行幸になったさい、お通りになった道というので御幸の二字がつけられ御幸本町通と呼ばれた。昭和天皇が名古屋に行幸された時の話は、今も古老たちの語り草となっている。毛布を敷き、地にひれ伏して陛下のお通りを見送ったという。
名古屋の中心の通りだけに、本町通りに店を構えるのは、名古屋商人の誇りであった。昭和十一年の調査では、本町通に店を構える百五十五軒中、百四軒までが個人商店で、一流の卸問屋であった。
通りの両側には、間口が四間半、奥行きが二十二間の店が並んでいた。奥には庭があり、樹木が空高くそびえていた。蔵には、商品がうず高く積まれていた。
本町通りの北のはずれに軍隊や軍衛があった関係から、軍用品や入退営の記念品の販売店も多くあった。
京町通と本町通の交差点、東北角に堤靴店がある。戦火をまぬがれ、戦前の洋風建築の洒落た感じの靴屋がある。軍用品を商っていた戦前の雰囲気を残している唯一の店である。 本町通りと外堀通との交差点、東南角にある県産業貿易館本館は、戦前はいかめしい憲兵隊本部のあった地である。本町公園に、ひっそりと一本の小さな碑が建てられ、憲兵隊跡と書かれている。
江戸時代より、戦前までは本町通りが、文字通り名古屋のメイン・ストリートであった。 本町の町名由来には二説ある。『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』には、次のように書いている。
往古慶長年中清須の本町に居住の者共、当名古屋の地へ引越来りて、旧号を用ひ本町と称す。
清須にあった地名をそのまま用いたという説である。それに反して『尾張名陽図会』の説は、次の通りである。
織田信秀今川の廃城を取立、子息吉法師丸(信長の幼名)を名古屋の城に居せらる。其頃場外に少しは人家も有しにや、慶長已前より爰を本町と称せし由の一説有り。去れば其地に、今の町通り出来せしとみゆ。何国はあれど取分此町は家並屋造に甲乙なく、店のさま結構を尽す。都て市中の繁栄誠に大上々国の粧ひ顕然たる物歟。
織田信秀が那古屋城に居城していた頃にも、城外に人家が少しあった。城下の中心の町で、清須越以前より、本町と呼ばれていた。その地に今の町通りができたのである。清須越以前から本町と呼ばれていたという説である。
上戸目でたや錦の衣裳 鯱立に成て酒のむ
物はいはぬがよく働けど 憐む汝木偶をはなれず
と詠まれた猩々の山車が名古屋まつりには出された。猩々が酒を飲んでしまうと言うので、本町通りには酒屋は一軒もなかった。
本町通りに店を構えたのは清須越の商人ばかりではない。『金鱗九十九之塵』によれば、初代藩主義直の時代、三人の菓子商が駿府から本町に出てきた。そのうちの一軒が、今も名古屋名物の両口屋是清を売る両口屋の喜十郎である。喜十郎は姓は大嶋、号を是清といった。号にちなみ、今も両口屋是清として菓子は売られている。『明治百年しにせ展』のパンフレットには、両口屋の始まりは大坂道修町に住んでいた菓子屋猿屋三郎右衛門が寛永十一年(一六三四)に本町通に開いたとしている。