早水藤左衛門の弓の師─筒井町
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよび切腹を命ぜられたことを赤穂の大石内蔵助に最初に注進したのは早水藤左衛門満尭であった。
萱野三平と共に駕籠を乗りつぎ、一五五里(約六百二十キロ)を四日間で走破した。普通は十七日間かかる行程を、わずか四日間で駕籠に揺られ続け、息も絶え絶えに到着し、江戸で起った異変を報告したのである。
討ち入りの時には表門組に属し、神崎与五郎と二人して屋根にのぼり、母屋や長屋から出てくる敵を狙い、強弓でつぎつぎと射倒した。
藤左衛門は弓の名手であった。
彼の弓の師は、尾張藩の星野勘左衛門であるという。藤左衛門は備前の西大寺の山口平八の三男に生まれ、赤穂浅野家の家臣早水四郎兵衛の養子となった。元禄十二年(一六九六)に養父が隠居すると共に家督を引き継いだ。百五十石であった。
彼の弓の師、星野勘左衛門は、寛文二年(一六六二)五月二十八日、京都三十三間堂で試射・通矢六六六六総矢数一〇、〇二五をもって海内無双の達人としての名が知られた。
『天保会記』の中に紹介されている星野勘左衛門の逸話を紹介しよう。
大盗人として名をはせた日本左衛門が星野勘左衛門の屋敷に忍び入ろうとした。芋畑の中に身をかくし、屋敷の様子をうかがっていた。しばらくすると勘左衛門が戸を開ける音がした。日本左衛門の頭の上をすさまじい音をひびかせて矢が飛んでいった。勘左衛門は何くわぬ顔をして、戸を閉めて家の中に入った。日本左衛門は五体がすくんでしまって動くことができなかった。夜が明ける頃、やっと逃れ出て行ったという。日本左衛門は捕われた後で、こんな恐ろしいことはなかったと人に語ったという。
また、次のような話も伝わっている。
勘左衛門が旅に出た。宿の主人が出てきて「この家では、風が吹く夜、空高く子供の泣き声が聞こえて泣きやまない。矢を射て化物をしずめて下さい」と頼んだ。勘左衛門は、声の聞こえる方に矢を射た。手ごたえがあって泣き声はすぐに消えた。
夜が明けてから見てみたところ、枝と枝との間に矢を射こんであった。風が吹く時に枝がすれあって、声を出すのであった。
勘左衛門が名を一躍あげた京都の三十三間堂を模して、矢場町に長矢場小屋が建てられた。また、筒井町四丁目にも同じような矢場小屋が設けられた。 勘左衛門は高岳院に葬られた。