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2010年6月5日、堀川の浄化をを願う「堀川まつり」が名古屋市熱田区にある宮の渡し公園周辺で開催されました。 この祭りはNPO法人「堀川まちネット」と地域住民が協力して1990年から継続的に実施しており、今回で21回目。かつてこの地域で行われていた 「熱田天王祭」を復活させようと、まきわら船や大山(山車)を手作りで再現しています。
*以下の文章は、NPO法人「堀川まちネット」にインタビュー取材したものを要約したものです。
熱田天王祭の起源
熱田天王祭の起源は古く、平安中期頃、熱田周辺で疫病が流行したため洲崎神社、南新宮天王社に人々が旗鉾を持って疫神を奉ったのが熱田天王祭(南新宮天王祭)の始めとされています。
室町中期になると京都祇園祭の影響もあり傘鉾型の山車が参加するようになりました。その後、徐々に山車は高くなり、江戸中期には高さ約20mにもなる大山もありました。
しかし、明治に入ると市内に電線が架けられ大山の引き回しが難しくなる一方、南新宮天王社が熱田神宮内にまとめられ祭例日も尚武祭(熱田まつり)に統一されるなどして明治40年頃には天王祭の継続が困難になりました。
大山の中断とまきわら船の披露
なんとか天王祭を継続しようと、大山の代わりとして津島天王祭のまきわら船を勉強し、明治43年(1910)尚武祭(熱田まつり)でまきわら船を披露しました。戦中の中断をはさみ、戦後も熱田まつりの日にまきわら船は続けられていましたが、昭和50年(1975)に資金不足などから途絶えてしまいました。現在の熱田まつりの各門に設置される献灯まきわらはその名残といえます。
往時のまきわら船と大山を再現を目指す
NPO法人「堀川まちネット」の前身となるミニコミ誌発行グループ「あつたっ子」が、堀川を調べる過程で熱田天王祭の存在を知ったことがきっかけとなり、1990年に熱田天王祭の復活を目指して堀川まつりを始めました。
ミニサイズのまきわら船1隻からスタートした堀川まつりも2005年にはかつてのまきわらと同じ大きさのまきわらを手作りで再現し、現在は大中小3つのまきわらを有しています。
今年は名古屋開府400年、堀川開削400年の記念の年ということで、まきわら以前の天王祭の姿も再現しようと取り組んできた大山の曳き廻しも実施されました。
ノーパンクタイヤと鉄骨の上に鉄製のやぐらを組んだ大山は高さ16m。色とりどりの幕と竹で飾り付けした大山が夕日に照らされながら宮の渡し公園脇の道路をゆっくりと往復。
日没後、灯りがともされた大中2隻のまきわら船が宮の渡し前の堀川上を行き交いました。同日開催されていた熱田まつりの花火をバックにオレンジ色に光るまきわら船が堀川の川面に幻想的に映し出されていました。