熊胆丸(ゆうたんがん)小路
鳳来寺山門江戸時代、広小路を越えて本町通りを歩いてゆくと、さまざまな動物に出会うことができた。『正事記』には、万治三年(一六六〇)の大火の前には、広小路より南の地域に狼が出没したとの記事がある。本町通りに姿を現す動物は、人を襲う動物ではなくて、人に愛嬌を振りまく動物だ。
本町通りに面した中須賀町には、猿が、末広町には、通りの西側に狐、東側には猪がいた。これらの動物は本物ではない。猿は沢瀉屋、狐は狐膏薬の看板に描かれているものだ。
猪は熊胆丸の庭先に猟師に鉄砲で撃たれている人形が置かれていた。喜多福の看板は動物ではないが、大きな鯛が目をむいているものだ。もっとも海老屋では本物の猿や鳥を飼って客寄せをしていた。
これらの店は、宣伝もうまいが、売物の薬品の方も評判が高かった。名古屋の一番のものを列挙した『新板名府玉づくし』は、漢法薬は熊胆丸、膏薬は沢瀉屋の名をあげている。
中須賀町の沢瀉膏薬店について『尾張名陽図会』は、次のように述べている。
尾張名物として、世間の評判が高い。元祖は伊勢朝明郡柿村の住人水野三郎左衛門という人だ。この人は、妻の縁を頼り、三河の国に移り住んだ。子どもがなかったので、鳳来寺の薬師仏に子宝に恵まれますようにと祈った。祈った効能があって、男の子を授かった。この子が後に勘左衛門となる。
もともとこの人は、薬師仏を信仰し、参籠すること数度に及んだ。ある時、七日七夜籠って通夜した夢の中に、本尊の如来が枕もとに立ってお告げになられた。「お前は、私を熱心に祈ってくれる。お礼に膏薬の妙法を授けよう」とお告げになり、薬法をくわしく授かった。夢から覚めてその通りに膏薬を作った。
秘法の膏薬を商っていたが、不便な所で商売をしているより、名古屋に店を出そうと、万治三年、この地に移ってきた。寛文元年(一六六一)膏薬を売り始めた。その後、繁盛して三代目になり家運はますます栄えていく。
細野要斎は『感興漫筆』の中に、安政五年(一八五八)、沢瀉屋に薬師仏を拝観に出かけた折の記録を載せている。
この店の先祖某、参州鳳来寺に参拝した帰途、山中で猿に導かれて行くと、薬師仏が置かれていた。その仏が今目の前にある。銅像で、座像の長さ四寸ばかりである。店先の南側で開帳している。荘厳で、供物が美しく飾られている。造花もみごとなものだ。夜はとくに人々が群集するという。
水野三郎左衛門は鳳来寺で、参篭している夢の中で膏薬の秘法を授かっただけではない。参籠の帰途には、薬師仏を与えられている。三郎左衛門に薬師仏が渡ったいきさつは、彼が鳳来寺の裏坂、猿橋についた時のことだ。猿に似ているが、猿ではない不思議な動物が出て来て、後方を指さしている。指さす方に行ってみると、薬師如来が光り輝いて立っている。如来は、前ばかりで後背がない半身像だ。これを持って、鳳来寺の山坊のひとつ月蔵院に行き、そのいきさつを上人に語った。上人は後背を造り、薬師仏を完成させて三郎左衛門に与えた。
この薬師仏の霊力によってであろうか、膏薬の効能はあまねく知れわたった。藩主にも献上し、おほめを頂き香炉を下賜されたという。看板は、店の柱にかけてある。
熊胆丸は、末広町の南端にあった漢方薬の店だ。店は現在の若宮大通りと本町通りとの交差する地に建っていた。熊胆丸の前には、木製の黒門の大木戸があった。この門は夜中には閉じられた。末広町にはその他、御旅所横町、光明寺前にも木戸があった。明治三年(一八七〇)に、これらの門は全部取払われてしまった。
熊胆丸の松前屋吉兵衛の先祖は姫路藩士(医師との説もある)で、大坂から、名古屋に江戸初期に来て店を開いた人だという。屋号の通り、松前(北海道)の熊の胆を販売していた。松前の熊の胆は島(しま)脯(ほじし)として珍重された。脯とは干した肉のことだ。熊胆で最高のものは、黄赤色で琥(こ)珀(はく)様(で)と呼ばれるものであった。これは夏胆とも呼ばれ、皮が厚くて胆汁が少なかったからだ。松前の熊の胆は簡単に手に入らない。漢方薬として珍重された熊胆の多くは偽物で、野猪の胆や牛の胆であった。
松前屋の熊胆は本物であるから評判が高かった。店は戦前まで商売をしていた。熊胆丸の松前屋の前から、日出神社まで続く小路があった。この小路を熊胆丸小路と呼んだ。
門前町松前屋店前来宮祭黒船車引渡す図(尾張名所図会イメージ着色)『尾張名所図会』に、「門前町松前屋店前来宮祭黒船車引渡す図」が載っている。華麗な黒船が、豪壮な商家松前屋の前に置かれている図だ。延宝三年(一六七五)祭が始まった頃は、熊胆丸の前に船を飾るのが通例であった。松前屋を門前町と『尾張名所図会』は書いているが、末広町にこの店が編入されたのは明治四年のことだ。
盆の間に、幼い女の子が歌う「盆ならさん」という童歌がある。その歌は
門前町の黒船ごろぜ 幕は緋緞子葵の御紋 中の囃子の面白や〳〵
というものだ。黒船は末広町のものであることは歴然としているが、「門前町の黒船ごろぜ」と歌われたのは、門前町の松前屋の前に船が置かれたからであろう。
狐膏薬の絹川吉兵衛の店は、本町通りを隔てて熊胆丸の向い側にあった。狐膏薬の名は、おそらく若宮神社の白雪稲荷と関係があるだろう。白雪稲荷の門前で商っていたから狐膏薬なのか、あるいは伏見から伝わった膏薬だから、狐膏薬なのか、そのどちらかであろう。この店は明治二十一年(一八八八)、膏薬屋から古着商に転業している。
三軒の名高い店も、今は本町通りに姿が見えない。時の流れというものであろう。