七面横町
七面山妙善寺 本堂横町、なんとも愛着をそそられる言葉だ。本通りに対して、町内をぬける路という感じが、横町という言葉には、こめられている。本通りのとりすました、よそよそしい感じに対して、生活感が横町にはある。
つい少し前までは、横町でどんな買物でもすますことができた。酒屋がある、八百屋がある、電気屋がある、よその町に買物に出かけなくても、横町を歩けば、すべての生活の用を足すことができた。
生活の連帯感が横町にはあった。寄りそって、助けあって、暮しているという感じが横町にはたちこめていた。
町内を通りぬけてゆく。町と町をつなぐ、そんな本通りとは違う、自分たちの道という意識が横町にはあった。
町の連帯感がなくなるとともに、横町という言葉もいつしか死語になってしまった。
七面横町という言葉には、町の人々の七面様に対する崇敬の念がこめられている。七面様とともに生活をしているという誇りが感じられる。七面横町とは、七面様とともにある町であった。
七面様とは妙善寺のことだ。『尾張名所図会』は妙善寺のことを、次のように紹介している。
橘町の西側にある、日蓮宗、京都妙願寺直末、天和三年(一六八三)に日春という僧が建立した妙禅寺という廃寺が愛智郡岩作村(現在の長久手町)にあった。そこから寺号をうつして妙善寺と名づけた。延宝の頃(一六七三~一六八〇)より尾張藩主の信仰が厚く、今に至るまで繁昌している。
『尾張名所図会』に書かれている尾張藩主とは、徳川光友のことだ。
延宝八年(一六八〇)五月、尾張藩二代目藩主の徳川光友は腫物のために苦しんでいた。豪商、茶屋長以は光友の病気平癒を願い、七面女神像を必死になって彫った。光友の病気は、七面女神像の加護のためか平癒した。その七面女神像の祀られているのが妙善寺だ。妙善寺と呼ぶより、七面様の愛称で親しまれているのは、そんないきさつがあるからだ。
お堂の入り口には徳川光友公直筆の「七面宮」の文字が掲げられている
妙善寺は、何度となく火災にみまわれた。文政五年(一八二二)の橘町の大火では、妙善寺は焼け残ることができたが、太平洋戦争での空襲では山門だけを残して跡形もなく燃え尽きてしまった。七面女神像だけは火の中から取り出すことができて無事であった。
『中区史』(平成三年刊)に、空襲により妙善寺が焼失する様子を書いた『井川幸治日記』が載っている。
昭和二十年(一九四五)三月十二日の記事である。
七面様の玄関の屋根破風のかげから、ブスブスと火の手があがっている。僕らが着いたときには、すでに町内の四人手押ポンプが消火に努めていた。直ぐに水を掛けた。十分ほど消火していたが、すでに水道は止まって水は出ない。……
天満屋の水野さんが「いよいよ七面様も駄目だで、消火班も解散するから、各自の家を守ってください」と言われたので、僕らはポンプを持って家に帰り、また二階にあがって火の粉と戦った。火の粉は増すばかり、父は、これまでも二、三度「ここを逃げ出そうか」と言ったが「七面様がある間は」と言って頑張ってはいたが、隣組の中でも、すでに井上さんも、山田さんも何処かへ行って、もういない。七面様も、早や本堂に火が移って今も盛んに燃えている。
空襲という極限の状況の中で、生命を賭けて火災から七面様を守ろうとする町内の人々。「七面様がある間」と、疎開することもなく町内に踏み止まっている人たち、七面様とともにある人々の様子がよくうかがえる記述である。
七面様を守るという一体感で結ばれた町内の人たちの強い絆があるからこそ、七面横町という呼称にも、町内の人たちの強い誇りと愛着が感じられる。
「ところで七面横町とは、どの筋のことを言うのでしょうか」と妙善寺の住職夫人に聞いてみた。
「さあ、昔のことですから、しかし、東別院から七面様までの人通りは、とぎれることがなかったと聞いています。戦前には青年団の人たちが交通整理に出たほどです」と言われた。
住職夫人の話を裏づけるような絵が高力猿猴庵の『名陽旧覧図誌』に載っている。
宝暦、明和の初めの頃(一七五一~一七六六)の二月、橘町の古道具屋の店先に、植木売りが大勢店を出している図だ。大坂から松、梅、みかんなどを持ってきて商売をしたという。手代町の角から店を出し、七面横町にまで植木屋の店は続いていた。
妙善寺前から栄国寺に伸びる小径『名古屋城下図』には、本町通りから、妙善寺の南に入る筋に七面横丁と書き入れてある。かなり大きな筋だ。妙善寺から、すっかり変わってしまった七面横町を感慨にふけりながら歩いていった。
ひっそりとして、自動車だけが通り抜けてゆく現代の七面横町。その名前が人々の生活の中から忘れ去られるとともに通りのたたずまいも、町のくらし向きもすっかり変わってしまった。
七面様の道をはさみ南側にある、美濃佐酒店の八十歳になる水野さんに「名古屋城下図」に描かれている通りでよいかを聞いてみた。
「栄国寺の門前からを七面横町と言う人もいますが、正確には、私の家から西側が七面横町です。今、十九号が走っているあたりまで、何軒もの家が寄りそうようにして生活していました。私の家をはさんで、すぐ前の七面様に大きな楠がそびえていました。その隣の妙善寺の駐車場の所に最初は茶屋があり、床屋に変わり、チャオという喫茶店になりました。私の家は奇跡的に空襲から免れました。防空壕は、そこにありましたよ」と店の前から一メートルほど歩いて本町通りに立たれた。
妙善寺が実家である近藤法子さんは、「伊勢湾台風で、昭和三十四年に楠は倒れてしまいました。町の人が大変残念がっていらっしゃいました」と自分の育った七面横町のことを懐かしく語っておられた。