新天地
たくさんの人で賑わう現在の大須新天地通り俗名は、その街の様相をたくみに表現したものだ。時の流れとともに俗名は生まれ、時の流れのなかで消えてゆく。新しい大須の街の俗名の一つが、アメ横だ。
一時期、大須の街は寂れていた。その大須の街が賑やかになった要因の一つは、万松寺にアメ横ができたからだ。アメ横といえば、東京のアメ屋横町が有名だ。戦後まもなく引き揚げ者などが、JR上野駅から御徒町駅にかけての高架下に、あめを売る店を出したのが、アメ横の始まりだ。たちまち露店が軒を連ね、東京一の闇市場として名をはせた。今では、外国人も数多く訪れ、東京名物の一つとなっている。五百店ほどある小売業者たちは「アメ横商店街連合会」を結成し、昭和四十四年には「アメヤ横町」を商号登記している。
大須のアメ横ビル会社は、昭和二十六年に「赤門興行」の名で商号登録をした。昭和五十八年三月からは「アメ横ビル」の名称を使い、六十二年十二月には「アメ横ビル」と社名も変更している。
昭和六十三年、東京のアメ横は大須のアメ横に対して商号の差し止めと千五百万円の損害賠償を求める裁判を起こしている。
横浜の中華街は、全国に名前が知れわたっている。大須にも、中国料理店が軒を並べる中華街ができた。中華街も大須の新しい俗名のひとつだ。(※編集部注:OSU301ビルの3階にあった大須中華街は2009年11月末で閉店しています。)
新天地通りの第1アメ横ビル通行人が行き交う万松寺交差点現在の万松寺界隈は、電気製品を買いに来る人々のアメ横、中華料理を食べに来る人々の中華街として賑わっている。かつての万松寺は、新天地として映画の興行街であった。
新天地とは、新しい世界、別世界のことだ。明治の中頃までは狐が多く出て通行人を化かすので「お助け行燈」が路地に置いてあり、誰でもが自由に使うことができた。
そんな寂しい土地に、映画館が幾つも建ち別世界のようになって来て、万松寺の前、万松寺通りと赤門通りの間を、新天地と呼ぶようになった。『日本の大須』に、次のような記述がある。
ともかく万松寺一帯が商店街として発達して来たのは大須門前よりズット後で、本格的な商店街を形成したのは明治座の横にあった菊人形が万松寺筋に移って黄花園を造り、全国的な人気を占めるに至ってからであり、明治四十一年の大津町線の開通、四十三年の共進会開催が万松寺一帯の発達に拍車を加へた。
現在新天地は大須の中軸の如き観を呈し、常盤館、名古屋劇場、帝国館、帝国劇場が集って興行街を形成して居るが、大正五、六年頃までは一面の野原で、大正五年に高橋炭屋が家を建てた時など、野原にポツンと一軒有っただけで、全く想像も出来ない淋しい街で有った。
文中にある名古屋劇場は、大阪の笑いの殿堂吉本の名古屋最初の直営館だ。昭和十二年の開場記念には、昭和九年コンビ別れしたエンタツ、アチャコのそれぞれの劇団の合同公演として『喜劇・カフエー萬歳』四幕を上映した。
この劇場からは、田端義夫、有島一郎がデビューしている。
吉本は名古屋劇場の東隣にあった常盤劇場も買収した。昭和十二年十二月より吉本直営館として名前を花月ニュース劇場として開場した。映画の合間に漫才が上演された。入場料は十銭である。昭和二十年、終戦直前に吉本は名古屋の劇場経営から手を引いた。
この地で長く営業を続ける喫茶店コンパル戦後いちはやく新天地は、興行街として復活した。名古屋劇場の北には平和劇場、日活シネマ、南には日活映画劇場が建ち、いつも満員の客を集めていた。映画は斜陽化し、映画館はいつしか新天地から姿を消していった。昔からこの地にあるのは喫茶店のコンパルだけだ。
興行街の新天地は、今、アメ横、中華街の新天地として生まれ変わっている。