手たたき稲荷
門前町と橘町の堺、本町通りより東側を菖蒲川町といった。この町は、江戸時代には釜屋横町と呼ばれていた。むかし、北角に釜屋何某という金持ちの酒屋があったので、そのような俗名がついたのだ。
菖蒲川町は、明治になってソブ川町と呼ばれるようになった。ソブとは汚い水に浮かぶ鉄さびのような地渋のことだ。この町を流れる川が、ソブの浮かぶ汚い川であったので、ソブ川町という俗名がついたのであろう。
織田信長の守本尊 三宝荒神を祀る天寧寺 三宝殿本町通りより西側の町筋は、白鳥材木役所の手代たちが住んでいたので、手代町と呼ばれていた。
菖蒲川町筋から岩井通り線の間、本町通りに面して天寧寺、安用寺、全香寺、来迎寺と四つの寺がある。
天寧寺は円徳院と号す善篤寺の末寺で、もともとは清須外町にあった。蒼空隆公の開基で、慶長遷府の時、今の地に移ってきた。元文三年(一七三八)に、寺号を天寧寺と改めた。
三宝殿脇には素焼きの鶏や絵馬が奉納されている本堂と並ぶようにして、三宝殿が建っている。三宝殿の本尊は三宝荒神で、織田信長の守本尊である。三宝殿には、おびただしい数の鶏の絵馬が飾られている。文化・文政の頃(一八〇四~一八三〇)より荒神信仰が広まり、願いごとがある時には、粘土で作った素焼きの一対の鶏のうち、雄の方をお供えし、祈願が成就した時には雌をお供えするという信仰があった。いつか素焼きの鶏にかわり、絵馬が使われるようになった。
この三宝殿の北側に、明治十二・三年頃に奉納座という芝居小屋があった。
安用寺は、太治山と号す善篤寺の末寺で、天寧寺と同じく清須外町にあった。慶長遷府の時に、現在地に移ってきた。杉の町に上使饗応所ができる以前は、この寺が上使を迎え饗応をした。初代藩主の義直も、二代藩主の光友も、しばしばこの寺を訪れ上使と対面をした。この寺の太治山という額は光友が書いたものだ。
安用寺の隣にある豊福稲荷境内の一画に稲荷堂がある。明治年間、この稲荷堂は、多くの参詣人で賑わっていた。昼間はいうまでもなく、夜間も、ひきもきらさず参詣人が訪れた。夜中に参詣人が、手をたたき、お祈りをすると狐がいずこともなく出てくる。格子に近くまできて、参詣人をじっと見ていたという。稲荷の神の使いである狐が、姿を現すというので、安用寺はますます評判となり、この稲荷は手たたき稲荷と呼ばれるようになった。
安用寺の南角に寿司常というたいそう繁昌している寿司屋があった。主人は上州生まれの勇み肌で、全身に倶利伽羅紋紋のいれずみをしていた。大正の終わり頃まで、チョン髷をしていた。