浅間横丁・うまいもの横丁
富士浅間神社浅間神社を囲むように白い防火壁がそびえ立つ頑丈な防火壁に囲まれているために、戦火を免れた神社がある。大須の富士浅間神社だ。防火壁は神社の南側に、今も赤茶けた色で神社を護るかのようにして建っている。
富士浅間神社が、現在の地に創建されたのは明応四年(一四九五)のことだ。後土御門天皇の勅命によって、時の駿河富士浅間神社の神主小林修理が、この地に勧請したのを由緒とする。
大永六年(一五二六)には、時の前津小林の城主、牧与三右衛門長清が、この神社を再興した。長清は、織田信長の妹婿にあたる。彼は深く仏教に帰依し、敬神の念の篤い城主であった。特に富士浅間神社を崇信し、七度び参籠の祈願を起した。しかし、戦乱の世の城主が、城を留守にして七度も駿河の国に出かけることはできない。そこで長清は、居城(現在の矢場地蔵の地)に近いこの神社に祈願することにより、駿河の国の本宮に参拝することに代えた。元亀元年(一五七〇)、長清が亡くなった後も、その夫人(信長の妹)の手により、この神社は保護されてきた。
昭和十三年に刊行された『日本の大須』という小冊子がある。この本に大須の鳥瞰図が載っている。本町通りから大須観音に通ずる二本の道には、それぞれ入口に大きな看板が立っていた。仁王門通りは、大須の大提灯のネオンアーチだ。その北側の道、現在の大須観音通りには、大きな鳥居が建っていた。浅間神社の参道であるこの道は、浅間通りと呼ばれていた。
浅間通りから仁王門通りに抜ける東側の道が浅間横丁浅間通りから、神社の前を通り仁王門通りに抜ける道は、浅間横丁と呼ばれた。
また北側に宮田楼、栄泉堂、東宝大須劇場、南側に割烹泉竹、八千久漬物店にはさまれた小路は浅間小路と呼ばれた。横丁から大通りまで、浅間という俗名で呼ばれるほど浅間神社は、大須の町にとけこみ、大須の人々の篤い信仰をうけている神社であった。
浅間神社の浅間通りから仁王門通りに抜ける東側の道が浅間横丁、神社の西側にはうまいもの横丁があった。うまいもの横丁には、おでんの浦島、寝ざめそば、一杯飲屋の東京屋支店、天ぷらの天金が軒を連ねていた。
『日本の大須』は、天ぷらの天金を次のように紹介している。
うまいもの横丁に意気な天ぷらの店「天金」がある。江戸前の料理で、惜気もなく素晴らしい材料を使ふ。生きた海老が、新しい油でヂュウと狐色にあげられたのを見た時、思はず食欲が唆られる。
酒も灘の生一本、野菜天、海老天と舌の上でもつれ合ふ時、何とも言はれぬ味覚の陶酔境に置かれる。
寝ざめそばについては
江戸っ児が、そばは東京に限ると意張って居るが、もし寝ざめへ来たらそうした暴言ははかないだろう。現に東京の通人がわざわざ此處へそばを食いに来ると云ふ話だ。
と記している。
身びいきの誇張した表現かも知れないが、うまいもの横丁の店は、評判が評判をよんで多くの客をひき寄せた。
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