山の内
神明社の西側、国道十九号の近くに、向きあって建っている寺がある。曹洞宗の洞仙寺と真宗大谷派の善正寺だ。神明社と二つの寺とを結んだ三角形を山の内と呼んでいた。伊勢山には、七つのなだらかな山があった。その山の中の社寺であるから山の内と呼ばれたのだろう。
洞仙寺
洞仙寺は、初め玉泉寺と号していた。寺号は創建者の玉泉玄珠の名に由来す。寛文七年(一六六七)洞仙寺と寺号を改めた。本尊の千手観音像は恵心僧都の作であるという。
『金鱗九十九之塵』は、本尊の千手観音像について、次のように記している。
此尊像は昔天台の座主恵心僧都、一千日の間禅室の扉を閉て、一刀三礼の制作にして、源家の大将頼信公へ、鎮護国家の為に付属し玉ふ。長さ弍尺五寸余と云々。又頼朝公迄七代の守本尊のよし。当寺縁起一軸に委敷ありとぞ。
また境内には、織田信秀のお手植の梅の名木が、春ともなると美しい花を咲かせた。この梅の木は、信秀の法号である万松院殿桃岩大居士により名をとり、桃岩木と呼ばれた。紅白が相まざって見事な梅であったという。
現在の洞仙寺には、桃岩木のような名木はないが、境内には青山圃暁夫妻の連句碑が建っている。碑には
是般若すみれといふも春の草 圃暁居士
さくも春雨散もはるさめ 覚月禅尼
「般若すみれ」というのは、すみれの一種。青山圃暁は、古渡の大富豪で、洞仙寺は彼の菩提寺であった。俳諧を暁台に学び、暁台の有力な後援者のひとりであった。
圃暁夫妻の連句碑の傍に、師の加藤暁台の故郷塚が建っている。暁台の塚は、京都四条の南、大雲院にある。名古屋に師の塚がないのを悲しみ、門弟の士朗や臥央たちが洞仙寺に築いたのだ。
『枇杷園句集後編』のなかに、井上士朗は、「古のわたりの洞仙寺は父母の墓所なり。其側に大人の名印ひとつを座みてかたのごとくの塚を築き、追慕の記念とはなしはべりぬ、去年その事をいとなみはべる」と記している。
この塚が築かれたのは、暁台の一周忌のときだ。晩年に二条家に召されて、暁台は京都に移り住む。寛政四年(一七九二)一月二十日、四十歳で彼は人生の幕を閉じる。京都はあまりにも遠い。門弟たちがいつも参ることができるように建てたのが洞仙寺の塚だ。
師の塚の傍に、自分の句碑が建っているのを、さぞかし地下の圃暁も喜んでいることであろう。
加藤清正の弟 加藤祐正の隠居所として建てられた善正寺洞仙寺と向かい側にある善正寺は、加藤清正の弟である加藤祐正の隠居所として建てられたものだという。初め曹洞宗であったが、中興開基の利春が東掛所の末寺として宗派を改めた。
現在の伊勢山からは、かつての七つの山があったという情景を思い浮かべることはできない。