旭廊(しんち)
名古屋に初めて傾城屋(遊郭)が公認されたのは、七代藩主の宗春の治政下の享保十六年(一七三一)である。『名古屋史要』は、宗春の治政を次のように記している。
宗春は名古屋に取りて一時期を画したる君主なり。政治上に於ては解放主義となり、拡張政策となり、市街の頓に殷盛を来たしたることは有名なる事実なり。宗春の豪放闊達なる、義直以来厳粛質朴に傾きし従来の施政方針を一変し、名古屋をして奢侈淫逸の俗を長ぜしめしと共に、一面に於て商業地として京大坂と相拮抗せしむるに至れり。
現在の区画と重ね合わせた旭郭図質素倹約を宗とする八代将軍吉宗に対抗するように、華やかな解放主義をとった宗春の施策を簡潔に表現したものだ。「奢侈淫逸の俗を長ぜしめし」施策の一つが、西小路、葛町、富士見原の三地区に遊廓を開業する許可を与えたことだ。しかし、宗春が幕府から咎めをうけ、失脚するとともに、元文元年(一七三六)、三ヵ地区にある遊廓は取り毀されてしまった。その後百数十年間、名古屋には公認の遊廓は許可されなかった。
明治になり、七年に大須の堂裏に旭廊という公認の遊廓を開く許可がでた。明治八年、現在の西大須の地に、北野新地から四十戸の貸席業者が移り、大歓楽境が出現した。非公認の遊女が春をひさいでいた北野新地は、大須観音の墓地を北へ、東は大光院の墓地まで、北は清安寺の墓地に囲まれた物暗い、陰うつな地であった。移転した西大須の藩の下級役人の組屋敷があった堂裏の地は、日の出町にあった北野新地にちなみ旭廊と名づけられた。北野新地から移り住んできた業者、他の地区から新たに商売を始める業者も出てきて、旭廊はまたたく間に高層な楼屋が建ち並ぶ歓楽地となった。
大光院そばから花園通を西にのぞむ吉原の仲ノ町のような存在の旭廊の中心は花園町だ。花園町の道幅は、他の町の通りより三倍ほどあり、道の中央には桜の木が植えてあった。花盛りの頃には、ぼんぼりに灯が点された。ぞめき客が、張り店の前を通り過ぎ、格子窓の中から客を呼ぶ遊女の声がきこえてきた。新妓廻りという、新しく遊女をやとい入れた時に行なう行事の時は、吉原の花魁道中と同じように、新妓がうちかけ姿に外八文字をふみ、新造、禿がつき従って日傘をさしかけ、揚屋まわりをしたという。
明治9年旭郭開業当時の料金一覧表娼妓の前借金は、五年で十円から二十円、上等の遊女は百円であった。揚代金(花代)は十二銭であった。
遊女の稼業年限は満五ヶ年、決められた借金をその期間で返さなければならない。衣類等は席主六分、遊女が四分の割で負担することとなっていた。遊女が借金をした場合は、金一円につき一ヵ月一銭あて返すという決まりであった。
大正四年の娼妓の人数は一四六四名、はれて廃業することのできた遊女は二七〇名であった。
大正八年、旭廊に遊びに来た人数は百十五万五千一〇八人、使った遊興費は百九十九万七五六円である。この年の遊女の数は千百人ほど。病気等で店に出られない遊女を除くと千人ほどが毎日働いていたことになる。仮りに千人とすれば、一人の遊女が千百五十五人の客をとったことになる。これを一ヵ月にすれば九七人弱、遊興費は二百三十五円弱、さらに一日一人の遊女の取る客は三人、客の使う遊興費は七円八十銭である。
多くの客が旭廊に集まり、多額の金額がこの地で使われた。
今、西大須の地は、かつての旭廊の面影はどこにも残っていない。