鳥屋横町
現在の光真寺(愛知県名古屋市昭和区滝川町17-10)明治四十三年の関西府県連合共進会の開催を機に、名古屋の街は、すっかり変貌した。会場の鶴舞公園に向けて、何本もの道路が整備された。大須の町を分断するようにして開通したのが岩井通り線だ。
古い大須の町並みが取り壊されて、新しい大通りができた。
清須越の由緒ある寺も、取り壊され、この地から姿を消してゆく。
明治四十二年、善篤寺の末寺である光真寺は、二百九十五坪の境内すべてが、岩井通り線の敷地となったので、東山に移転していった。
光真寺には、多くの人々の篤い信仰を集めている薬師如来仏が祀られていた。この薬師如来仏について、『金鱗九十九之塵』は、次のような話を載せている。
当寺ハ元松寿院と云て、清須より此地に引移と云々。又薬師如来ハ霊仏にて、往時延宝(一六七三~一六八一)の頃、開扉ありしに、凶悪の士ありて、薬師信仰の人の此士に行当りしを、不礼也とて一刀に討はたし、足ばやに立退しが、きられし人は地に倒れながら、聊かも恙なかりしかば、偏に薬師仏の身がハりに立せ給ひしと、いよいよ信心せしとぞ。是より俗にきらずの薬師と称しもてはやせりとぞ。
境内が二百八十五坪の東連寺も、門前町警察署に敷地を売却して、東山に移転してゆく。
八事霊園そばにある現在の東連寺(愛知県名古屋市天白区八事山109)光真寺の北角に、鳥源という雁鍋屋があった。店主の橋本源七は、宣伝上手であった。間口いっぱいのペンキ塗りの大横看板を屋根にかかげた。看板には空飛ぶ三羽の雁が描かれていた。看板を描いたのは、当時の名古屋の人気画家の奥村石蘭だ。石蘭が看板を描いたのが評判となり、多くの人々がこの看板絵の見物に訪れた。
評判の鳥源にちなみ、東連寺の南から裏門前町へ通ずる道を鳥屋横町と呼んだ。この横町も、明治四十三年二月、岩井町通り線の開通により、すべて消えてしまった。
鳥屋横町の住人で、漢方医として名前のよく知られていたのは、渡辺正中だ。明治十七年・十八年の二年間、光真寺では、斅半義塾が開かれていた。塾主は山田大応。英語は、後に金城女学校の校長となるマカルピンが教えていた。スマイルズの『自助論』、『ナショナルリーダー四』などを教材として使っていた。斅半義塾は、後に万松寺に移ってゆく。
西別院の北向かいに住んでいたのは、三国一の甘酒屋の大口高根だ。多芸多才の彼は、伊勢門水、松井鶴羨、井上菊次郎たちとお洒落会を結成し、風雅な遊びを楽しんだ。
大口高根の住居の近くに、駒屋という蝋燭屋があった。主人の名前を駒屋歌右衛門という。歌右衛門は芸名で、本名は古川孫八郎という。歌右衛門という大それた芸名を使う彼は、田舎まわりの座頭であった。
蝋燭屋としての彼は、東別院の朱の大蝋燭を一手に用達していた。製法を秘して蝋燭のもえがらも家に持ち帰り、誰にも見せることがなかったという。
大須の町は、伏見通りにより分断され、岩井通りによって分断された町だ。