広見
尾張名所図会に描かれた西広見(イメージ着色)『尾張名所図会』には、名古屋御坊東側の広場の図が載っている。この広場は、東広見と呼ばれ、火除け地として開かれたものだ。
名古屋御坊西側にも、西広見と呼ばれた広場があった。奥村徳義『松涛棹筆』には「古渡東本願寺辺之古覧」と題した享和年間(一八〇三)の御坊と周辺の様子を描いた図が載っている。『松涛棹筆』は、文化・文政(一八〇四~一八三〇)の再建工事直前の御坊を描いたものであり、『尾張名所図会』は、再建工事が終った後の御坊を描いたものである。
『松涛棹筆』には、『尾張名所図会』に描かれている東広見は、描かれていない。東広見は、再建工事の時に火除け地として開かれたものであることがわかる。また『松涛棹筆』には、御坊の周囲はすべて土手になっているが、再建工事により石垣の堅牢なものと変っている。
再建工事前後に描かれた二枚の図より、火除け地は、再建工事前には西広見のみであったが、工事により、東、南、北側にも設けられたことがわかる。境外四方の火除け地は、それぞれ十一間四尺五寸(二十メートル強)の広さであった。
江戸時代の名古屋城下図『松涛棹筆』に描かれている西広見は、芝居小屋と崇覚寺の前の広場だ。芝居小屋の南側には、道があり、道をはさみ御坊に参拝する人たちの旅宿が描かれている。堀に架けられている橋を渡ると門がある。門の向こう側が、御本山への志集所だ。
この図に描かれている芝居小屋は、寛文四年(一六六四)、徳川光友により橘町の町家繁栄のために建てられたものだ。小屋は正面南向き、三間の舞台に唐破風厚柿葺だったという。この小屋が空前の賑わいを呈したのは、七代藩主宗春の時代だ。享保十六年(一七三一)の『編年大略』には「今年より芝居茶屋追々御免前代未聞之繁昌也」とあるように、この橘町裏の芝居小屋には、東西から名優が来名し、数多くの名舞台を演じた。
広見では、屋台が立ち並び、小屋が建ち、そこではさまざまな演芸が行なわれた。
文化九年(一八一二)の『高力猿猴庵日記』に、次のような記述がある。
東懸所報恩講に、広見にて曲馬興行す。女大夫樋口梅吉、碁盤の上に将棊盤をのせ、其上へ馬を乗上て三味せんを引、歌に合す。或は鞍の上に立て扇子を上たり、其外、いろいろの芸をなし、評判なり。又、馬の前足先にて二本に分りたる見せ物も有。其外、いろいろ見せ物多し。当年は、懸所前には過たる見せ物故、見物多し。
戦前の西広見の彼岸風景広見で行なわれたのは、演芸や見世物だけではない。富籤が行なわれた。花火も、この広見であげられた。遊興の中心地とし、広見は多くの人々を集めた。
人が集まる所には、多くの利権がからむようになってくる。広見が不法な建物が立ち並ぶようになり、夜ともなると火を焚き、花火をあげるという無法が行なわれるようになった。万延元年(一八六〇)には門徒総代が輪番に対して善処を求める口上書を提出するという事件にもなった。