穴門筋
穴門筋と思われる小径. 本町通りから崇覚寺の裏手を通り、東別院へと伸びる
本町通りから崇覚寺の裏手を通り、東掛所(東別院)に出る道を穴門筋という。
東掛所の西側、石垣の間に、人がくぐりぬけることができる小さな穴があいていた。それを人々は穴門と呼んでいた。
東掛所の堅牢ないかめしい建物の中で、穴門はとるに足りないような小さな門だ。真宗の多くの門徒をかかえる東別院としての権威のなかで、それはいかにも親しみのある愛嬌のあるものだ。
東掛所は広大な敷地のなかにあった。遠くから参詣に来た人たちは、芝居小屋の南側に軒を並べている参詣人専用の宿に泊った。朝早く、掛所をとりまくようにめぐらされている堀を渡り、参詣人専用の志集所にゆく。壮大な山門をくぐると正面に本堂がそびえ立っていた。
本堂の前には、右に五葉松、左に桜の大木が植えられていた。
参詣人が、緊張をし、威儀を正して改った気持ちで山門をくぐるのに対し、穴門は気楽に掛所に入ってゆける門であった。
山門は地方からの参詣人がくぐる門に対し、穴門は町の人々が自由に出入りをする門であった。
東掛所では、さまざまな儀式が行なわれた。
文化十四年(一八一七)十一月一日のことだ。
この日、東掛所では新堂の柱建の儀式が行なわれた。参拝の群集が集まりすぎて、事故が起きるのを恐れ、矢来門、南大門を通行止めにした。穴門と北の裏門を開いて、通路とした。狭い通路に多勢の人々が押し寄せたので、子どもや老人は押しつぶされそうであった。太鼓堂の仮小屋の前に「御供物被下所」の板札を出し、餅が人々に下された。
この時、人々に下された餅の数は九万四千九百であった。
三日の夕方のことだ。大八車を二輌からみあわせ、その上に酒樽、瓶子、鏡餅をつみこんだ。新堂の工事の頭領、大工の平左衛門にお礼として贈るためのものだ。三つ扇を前と後に立て、木遣り歌を歌いながら引きたててゆく。
本町通りは、この行列を見る人々で大変な賑わいであった。
十一日の夜のことだ。新堂の柱を巻包みにした木綿が盗まれてしまった。番人が警戒を厳重にしていた。夜中には、夜まわりが何度も監視してまわった。月夜であった。いったいどういう者が忍びこんだのであろうか。北の裏門のところに犬がくぐる程の小さな穴があるだけだ。不思議な事件であった。
文政五年(一八二二)九月のことだ。
東掛所本堂の破風西の方に、貘の大彫物が揚げられた。
この貘の形を真似た干菓子の落雁が穴門筋の菓子屋で売り出された。
菓子屋の店先には、「名物金獣糖 朝日耀 夕日輝」と染め抜かれた幟が立てられている。
穴門筋の店からは、本堂に揚げられている大きな貘の彫物が見えた。彫刻の貘は、朝日をあびて輝いていた。まっ赤な夕日の中に、貘はまるで生きているかのように浮き上っていた。
貘は、人の悪夢を食べてくれるという想像上の動物である。朝日、夕日に輝く貘は金色の獣物だ。
貘の形に造られた落雁は、黄色と紫色の二種類あった。
時代は下って、昭和九年(一九三四)の穴門筋の居住者を『橘町』を手に、尋ねてみよう。本町通りに面した大橋久鎮家と日本貯蓄銀行橘町支店の間の道が穴門筋だ。
大橋家は、名古屋開府とともに熱田より転住した旧家である。格子づくりの家が建ち並ぶ本町通りで、日本貯蓄銀行橘町支店は、コンクリート造りであった。昭和二年の開業で、業績は市内の支店の中でも一、二を争う成績であった。
昭和六年、この銀行は取付け騒ぎを起した。奉公団(青年団)の人たちが駆けつけ整理にあたったので、大過なく終った。
穴門筋に入ると一軒目は北側に石田庄太郎、南側は近藤証一の家だ。石田庄太郎は地元芝居の役者であった。健康を害して、千鳥軒という菓子屋を穴門筋に開いた。近藤証一の家は床屋であった。
二軒目は北側に加藤貞一、南側は伊藤幸一の家だ。加藤貞一は蒔絵師であった。伊藤幸一は自転車店だ。店先には何台もの自転車が並んでいる。
三軒目は北側、赤坂寅之助、南側、青山竹次郎の家だ。赤坂寅之助は、薪炭商、夫人は美容師だ。『橘町』に、赤坂家の写真が載っている。店先には炭俵が幾つも積まれている。ガラス戸には御婦人和洋髪結所と書かれている。青山竹次郎は、運送業だ。古沢町にも天婦羅屋を開業していた。
穴門筋から北側にも、南側にも閑所があった。北側の閑所は建具屋、古着屋、製本屋であった。南側の閑所は雑貨商と北側の閑所の製本屋から独立して開業した製本屋があった。
格子づくりの家が並ぶ穴門筋には、さまざまな職業を営む人たちが住んでいた。地域の連携は濃厚であった。
橘町の子どもたちにとって、穴門は絶好の遊び場であった。大人には信仰の対象である東別院も、子どもたちにとっては、かくれんぼうもできる、鬼ごっこもできる。大人たちに気がねせずに遊ぶことのできる場所であった。穴門筋を走りぬけ、堀を越えて穴間をくぐりぬける。そこには遊びの天国が待っていた。