地獄谷
若宮通りを越して、大須に入る。西側にテレビ愛知のビルが見える。本町通りを右に曲り、テレビ愛知に向けて歩いてゆく。いかにも大須の裏通りといった感じの通りだ。仁王門通りや万松寺通りにみられるきらびやかな店は一軒もない。落着いた、この地に根づいたような店ばかりだ。
しばらく歩くとなだらかな坂がつづく。この付近を、むかし地獄谷と呼んでいた。
早川徳三郎は『大須繁盛記』の中に次のように記している。
地獄谷とは日出町の東北部、水天宮東、万光院西裏の低地を言ったものだ。
この短い記述について、山田秋衛が註を付けている。註は次のように書かれている。
ここの住人は香具師、屋台店屋、紹介人(芸娼妓)、大道芸人、売春女、女遊芸師匠等が九尺二間の数十戸のへの字長屋に群居して、普通人は一寸足を踏み入れることのできぬ一区画であった。戦前頃から少し改善されたが、然し魔窟といった感じはいつ迄も残っていた。
地獄谷周辺地図(昭和8年住宅地図)大正十三年の『名古屋市居住者全図』によって、地獄谷の位置を確認してみる。
大光院の西に南北の小路、馬場という大きな家を隔てて、さらに西に、また南北の小路がある。その小路を馬場という家の前から西に入る閑所がある。閑所は村瀬という家の前で行き止まりだ。
村瀬と書かれた家、その前の片瀬という家の西が水天宮だ。水天宮は広大な敷地を占めている。
地図に、万光院という寺は見あたらない。大光院を誤植したものだ。村瀬家で行きどまりになっている閑所には、こまごまと名前が記された家がある。このあたりが地獄谷であったろう。
また、地獄谷の前、水天宮の南、大須観音の北の地を元新地と呼んだ。旭廓が出来る以前に、この地に遊廓があった場所だ。
現在でも、くぼんでいる地だ。地獄谷と呼ばれていた頃は、低い地の下に傾いたような老朽化した長屋の中に、大勢の人が雑居生活をしていたであろう。
そんな地獄谷は、さながらゴーリキーの描く「どん底」の世界だ。この小説を脚色した仲代達矢の芝居があった。黒沢明の映画があった。芝居も映画も、どん底の生活の中から抜け出たいとあがいている人々のたくましくも悲しい生き方を描いたものだった。地獄谷と聞くと、映画や芝居の中の、なんとか今の境遇からぬけ出したいとして、住人がわめき、どなりあっている場面が浮かんでくる。
地獄谷の住人の香具師とは、縁日や祭礼など人出の多い所で見世物などを興行し、粗製の商品などを売ることを仕事としている人たちのことだ。「男はつらいよ」の寅さんの仕事だ。香具師のことを、てきやともいう。
地獄谷の香具師のかせぎ場所は、大須観音の境内だ。ここでは香具師たちが、コマ廻し、居合抜き、砂書き、唐竹割などさまざまなパフォーマンスを演じていた。境内のいたる所から香具師の口上が聞こえていた。それにあわせるように、大道芸人たちの呼び声もつづく。
自分の身を売ってしか生きる術のない女たち、客ひきの男たちの住居も地獄谷だ。
地獄谷とは、外部の人間のつけた俗名だ。貧しい、せつない生活から誰しも早く抜け出たいと願っている。長屋の住人たちは、互いにいたわり、思いやりながら精一杯生きていたことであろう。
『名古屋市居住者全図』を見ると水天宮の西に墓地がある。墓地の東の道を南に行くと花園町通りに出る。旭廓の遊廓が並ぶ通りだ。この通りの道幅は五間、中央は桜並木であった。この通りを西に行き、一本目の角に豊本と書かれた店がある。
ここが旭廓の大店豊本だ。豊本は遊廓のみならず風呂屋も経営していた。遊女がお勤めの前に入る湯だ。
さらに説教所も経営する。説教所は、講師を招いて、仏のありがたさを説き、人々を教え導くところだ。大須には、もう一軒、七ツ寺の近く、文長座の隣に梅本という説教所があった。ここの経営者も、旭廓の梅本という大店の主人だ。遊廓と説教所という正反対のものを経営する、その心がけはどのようなものか。いぶかしい思いがする。
説教所には、つらい境界を抜け出たいと願う地獄谷の人々も、講話を聞きに来たことであろう。