東陽通り
明治43年名古屋全図に描かれている東陽館と東陽町山田才吉という希代のアイディアマンがいた。名古屋名物の守口漬は、彼の考案によるものだ。
才吉は宏壮建造物を建てるのが好きであった。彼が建造した東陽館、南陽館の名前をとり、宏壮建築に通ずる道は東陽通り、南陽通りと呼ばれた。俗名は、いつしか正式の呼称となる。東陽町、南陽町という町名も、東陽館、南陽館がその地にあったから付けられた名前だ。
明治十四年、若宮神社の西隣りの地で、彼は考案した守口漬の店を構える。守口漬は飛ぶようにして売れてゆく。漬物の販売で巨利を得た彼は、その資金を元手に港区東築地に五万坪の土地を購入し、明治十七年、愛知県で最初の缶詰製造工場を造る。
缶詰製造は、思いもかけない形で彼に幸運をもたらした。明治二十七年、日清戦争が勃発する。陸軍は外地での保存食として、缶詰を使用することを決め、才吉に発注する。才吉は、東京・大阪に支店、工場を新設し、陸軍に納める牛肉缶詰を製造した。
東陽館(鶴舞図書館蔵)三十七年に起った日露戦争は、さらに莫大な利益を彼にもたらした。
才吉は缶詰製造で得た資金で、明治二十九年、丸田町の交差点付近の広大な地に東陽館を建設する。東陽館は広大な地の中に、豪壮な本館がそびえていた。間口は百間、奥行は約七十間、二階建てで屋根はヒハダぶきであった。
二階の大広間は舞台付きで三百九十六畳あった。階下は二十室あった。
庭には、山あり、池あり、そのなかに幾つかの亭が建っていた。池では舟遊びを楽しむことができた。人々は東陽館を人工の楽園と称した。現在各地で造られている巨大娯楽施設を、すでに才吉は、明治の時代に造っていたのだ。
明治三十六年八月十三日、東陽館は炎上する。この大火は旭遊郭の火事とともに、明治の二大大火に数えられている。
火事の後も、才吉は東陽館の営業を続けるが、すでに昔日の面影はなく、大正の末に営業を中止することになる。
料理旅館「南陽館」(大正2年頃. 市政資料館蔵)東陽館の名をとって付けられた東陽町が誕生したのは明治二十六年だ。矢場町から丸田町、老松へと東陽館に通じる道路が開けた。この道路を中心として、田は宅地へと変わってゆく。東陽町が誕生した明治二十六年の戸数は六十戸。明治四十四年には四千余戸へとまたたくうちに戸数はふえていった。
大正年間、東陽館を失った東陽町は、商店街として生まれかわる。東陽館の焼け跡近くに東陽公設市場が建てられた。市場には、買物客がいつもあふれていた。人が集まる通りは店ができる。一軒、二軒と店ができ始め、いつしか通りの両側は商店で埋まってしまった。
戦前には市内五大商店街の一つに数えられるほどの賑わいであった。