百メートル道路
100m道路の一つ久屋大通は名古屋の中心を南北に延びる太平洋戦争の数度にわたる空襲によって、名古屋の街は壊滅的な打撃を蒙った。終戦直後の人口は、七十万人にも減少していた。焼失面積は三千八六〇ヘクタールに及んだ。
焼け野原と化した名古屋の街に、人々はバラック建ての家を建て、新しい生活を始めた。名古屋市は罹災者が厳しい冬を乗り越えるための、簡易住宅の建築を始め、六・二五坪の住宅を八千戸建設した。その住宅は、三千五〇〇円の価格で売り出された。
このような応急の処置を講ずるとともに、昭和二十年十月に、名古屋市の将来人口を二百万人と想定した復興計画を発表した。復興計画の中心となって活躍したのは、田渕寿郎(たぶち じゅろう)である。中国の戦線から帰り、三重の田舎にいた田渕寿郎に戦災復興事業をまかせるために名古屋市の技監として呼びよせたのは、十四代名古屋市長の佐藤正俊である。佐藤の意をくみ、田渕は徹底した区画整理を行なった。昭和二十一年三月十四日に開催された名古屋市議会の承認をうけて、田渕寿郎のたてた復興事業計画は実現される運びとなった。
田渕のたてた計画の眼目は、新しい道路は自動車二台が速度を落とさずにすれちがうことができるような幅にすること、墓苑を新設して各寺院の墓地を移転すること、高速度鉄道を建設することなどであった。彼のたてた事業計画のなかで、人々が最も驚いたのは、百メートル道路によって市内を四分割するという案であった。
田渕寿郎は『或る土木技師の半自叙伝』の中で、百メートル道路について、次のように述べている。
普通の道路という観念とはちょっと違うが、百メートルの防災道路もいまではひとつの名物にさえなりそうである。東西・南北二本の百メートル道路により、名古屋市を大きく四分割するという考え方の根底にあるものは、災害を防止したり、避難場にすることであった。これは百メートル道路だけでなく、新堀川や堀川の両側に十五メートル以上の道路を設けたことにも、災害時の活動がしやすいようにという考えが含まれている。百メートル道路をつくりはじめたころは、世間の人は飛行場でもつくるのか――と笑ったが、いまではそういう人もいない。この道路には、中央にグリーン・ベルトを設け、都市の美観にも生彩をそえフランスでいえばシャンゼリゼに相当する遊歩地帯にしようと、着々工事が進められた。
百メートル道路を通すには、多くの民家やビルを移転させなければならない。現在の久屋大通りの中心部、広小路通りの南側に建っていた朝日生命保険名古屋支社はビルをそのまま曳いてゆくという曳家移転工法が用いられた。
久屋大通りの中心部にそびえ立つテレビ塔は、新しい都市名古屋の象徴であり、復興事業のモニュメントとして建てられたものだ。