猫飛び横町
夏目漱石に『坊ちゃん』という小説がある。この小説に登場する人物は、赤シャツ、山嵐、うらなり等本名ではなくてニックネームで呼ばれている。赤シャツという呼び方だけで、明治初期の西洋かぶれした気障な男の姿が彷彿としてくる。ハイカラな赤シャツとは対照的に山嵐はバンカラな反骨精神に満ちた男の姿が浮かんでくる。漱石が『坊ちゃん』で描いた登場人物は、そのニックネームによって人物の特徴がよくでている。渾名だけではない。地名や場所でも俗名で呼ぶことによって、その土地の感じがよく表われてくる。栄の交差点近くの南大津通りと呼ぶより「ティッシュ通り」といった方が、その通りの感じがすぐに浮かんでくる。名古屋駅前の近鉄駅の前の、と長い説明をするより「ナナちゃん」と呼んだ方が場所をすぐに特定できる。アメ横、中華街の呼び方もそうだ。俗名は、商店街や特定の地域を宣伝するために意図的に付けられたものと、仲間に渾名をつけるように自然に付けられたものがある。俗名で呼んでいたものが、いつしか正式の名称となったものも多い。仁王門通り、赤門通りなどもそうだ。大光院の赤い大きな門の通りが赤門通り、大須観音の門前の通りが仁王門だ。
現在の区画と重ね合わせた旭郭図泉鏡花が『紅雪録』の中で「紫川にはまる」と描いた地名がある。紫川は、本町通りの大久保見町より流れ、堀川にそそぐ小さな川だ。現在の若宮大通りの南に旭廓という遊廓が明治から大正時代にかけて存在していた。「紫川にはまる」とは、旭廓に深いなじみの女性ができた意だ。旭廓のなかに音羽町という町があった。音羽町は、大須観音の北、一本目の東西の通りが若松町、二本目が花園町、三本目が音羽町である。南北の通り、常盤町と富岡町の間にある町だ。『昭和八年住宅全図』によれば、音羽町の通りは北側は九軒、南側は七軒の名前が描かれ、あとは空欄になっている。『昭和四年住宅全図』には音羽町の名前がないところから、音羽町は五年から七年の間にできた町だ。この狭い町が「猫飛び横町」と呼ばれた。昭和十一年に撮影された猫飛び横町の写真を見ている。狭い小路に向かいあうようにして建っている格子づくりの二階建ての家。二階の庇から向かいの家の庇に猫が飛ぶような狭い町、それを「猫飛び横町」とは言いえて妙だ。
明治四十四年に刊行された『花くらべ』(花競会刊)という遊廓細見記がある。そのなかに「猫飛びある記」が載っている。
富岡町の各楼を素見果てし西側を御園にぬける小路あり。いと狭ければ猫飛と誰がつけたるか面白し。軒近ければ、しかいふわれも軒下伝ふ猫。北のかかりを美の宇とて、ここにお職はまるぼちゃの愛嬌ざかり売れざかり、それに似たる勝山は瓜実ならでまる切の其片われとしられたり。したたるゑがほこがね歯のげにすてがたきけしきなり。ある人がみのうへのこともわすれてあそふかなけに勝山のけしきみとれて次を松花楼といふ。いろに秋花みつる花、まぶの色花、いとよ花、月の花山さむし花、よし花つけてあげずとも一言こゑをかけしやんせ、客をまつ花線香花、仲居は客をまち、小猫も縁のはなにねて、はなをならすか面白し。
このような遊女の評判記を読んで、旭廓に遊客がつめかけたのであろう。「猫飛びある記」の冒頭に書かれているのが猫飛び横町だ。すでに明治の終わり頃から、このような俗名で呼ばれていたことがわかる。須崎橋から斜めに大須にぬける道がある。この道を土地の古老は猫飛び横町と呼んでいる。戦前には、音羽町のみならず、大須界隈の狭い小路を猫飛び横町と呼んでいたのであろう。古老は「猫飛び横町が須崎神社の祭の時には、両側からの提灯でいっぱいになり、それは美しいものでした」と語られる。古老の語る提灯祭のはなやかさを『大須大福帳』は、次のように書いている。
かつて旭廓界隈に住んでいた人、遊んだ人、見物に行った人の誰彼なしに、懐かしく思い出しては語られる、須崎神社の夏の祭礼に錦上花を添えるにふさわしい、提灯祭りの華やいだ光景は、廓の風物詩の一つ。廓独特の雰囲気をいやが上にも盛り上げて、又格別のものがあった。廓一帯に建並ぶ女郎屋が二階の格子を取外して、女郎の名前入りの岐阜提灯をつなぎ合せて、それぞれの家の間口一杯に並べて、二階の庇から吊下げる。その上、女郎屋や芸者置屋を始め廓一帯の軒毎に、鬼灯(ほおづき)提灯が鈴なりにつけられた長い竹笹が立てられていた。夕方になると、軒提灯の一つ一つにローソクの灯が点され、町全体が提灯の明りで埋めつくされて、ぞめき客の顔に映え、両側から張出された笹提灯のローソクの灯が、トンネルのように見渡す限り連なっていて、中でも道幅の狭い城代町などは、殊の外美しかった。その軒提灯の形も、店々の好みによって色とりどりに変っていた。瓢箪形から丸形、菱形、釣鐘形と思い思いの形を注文して揃えていたので、それぞれの店によって違った趣を添えて、夜の町を明るく彩っていた。普通の娼妓でも一人二十個前後、御職になると六十個位、自分の源氏名を書入れた岐阜提灯を、別に用意しておいた。二階の手摺に身を寄せては、吊下げられた軒提灯をかき分けて顔を出し、道行く馴染客に声を掛けて、その提灯を長い細竹の先にくくしつけて、二階からそっと垂らし、「さあお取りよ!」と渡していた。
大須に遊廓が出来たのは安政五年(一八五九)に笹屋庄兵衛が大須観音の北側に四軒の宿屋を開いたのが始まり。北野天満宮の近くにあったので北野新地と呼ばれた。明治六年に公認された遊里は、北野新地の西南の地に移った。現在の若宮大通りの南、堀川の東、大須観音の東、大須小学校の通りより北の地に明治九年より新しい廓の建設に着手した。日出より移ったので旭廓と名づけられた。明治十年開業した時には、妓楼百五軒、芸妓百十二人、娼妓三百十八人であった。芸妓は上、中、下の三段階にわかれ、上は一昼夜(夜十時から翌朝まで)二円五十銭、中は二円、下は一円六十銭、娼妓は上は一昼夜一円五十銭、中は一円、下は七十五銭、一仕切(夜六時より十時)上は三十七銭五厘、中は二十五銭、下は十八銭七厘五毛、線香一本上は十五銭、中は十二銭五厘、下は十銭であった。明治四十一年には妓楼百七十三軒、娼妓は千五百八人にものぼった。大正十二年の三月、旭廓は名楽園(中村区)に移転した。旭廓の時代には、さまざまな出来事が起こった。
何をくよくよ川端柳コガルルナントショ、水の流れを見て暮す、東雲のストライキ、さりとはつらいね、てなことおっしゃいましたかね。
この東雲節は、明治三十一年のしののめのストライキを歌ったものである。本名佐野ふで、源氏名の東雲が松阪楼の楼主森田平太郎の脅迫にたえきれず、おりから廃娼運動をすすめていた米人宣教師のモルフィの家にかけこんだのが事件の発端だ。前借金の二百四十五円を返すことができず借金は増えるばかり、前途を悲観したふでは足抜きを企てるも失敗する。モルフィは保証金百円を納め佐野ふでの身柄の仮処分命令を名古屋地裁に申請する。裁判所はこの申請を認めたが、楼主はそれに応じない。すったもんだのあげく、結局ふでは自由になることができなかった。モルフィは米国メリーランド州に一八六九年に生まれた。一八九三年、名古屋学院の前身、名古屋英和学校の英語教師として来日、二年間勤務した後、メソジストプロテスタントの宣教師として一九〇八年まで従事した。猫飛び横町をぞめき歩く客、その相手をする遊女は佐野ふでのように前借金にしばられ身動きができぬ籠の鳥であった。
事件は、遊女の側にばかり起こったのではない。妓楼主の側にも「たわけの標本」という事件が起こった。明治三十八年、甲子楼の伊藤敏兼が名古屋市会議員の選挙に出て、最高点で当選した。妓楼の主人が公職につくのはけしからんとばかりに中京新報が猛烈な反対運動を起こした。当時は女郎屋へ登楼した客の名前を、警察署へ届け出ることになっていた。中京新報は「たわけの標本」という題で、毎日、登楼した人の名前を掲載した。新聞に名前が出てはかなわないと旭廓から客足が遠のいた。伊藤敏兼は市会議員を辞職、中京新報も、この事件が契機となり、つぶれてしまった。小山松寿が買収し、名古屋新聞として明治三十九年出発した。
花園町の北側が猫飛び横町と呼ばれた音羽町、花園町より北に入る狭い小路をはさんだ町が城代町。この城代町には石だたみの道が敷かれていた。間口三間ほどの芸者置屋が軒を並べていた。城代町は芸者置屋の町だ。石だたみにちなんでか、城代町は俗名、石切町といった。『大須大福帳』は、次のように記している。
置屋といわず待合といわず、すべて色街の家々のたたずまいは一種独特の雰囲気があった。入口には毎朝掃き掃除をした後に打水がされ、格子戸の両隅に清め塩が小山に盛り上げてあって、一歩家の中へ入ると、上り框や柱に小縁から下駄箱まで、きれいに雑巾がけがしてあり、一輪挿に生けられた季節の花が玄関に風情を添えていた。玄関先の戸口の近くに、抱え妓の芸名を書き並べた丸い提灯が、門灯代りに吊り下げられていた。入口の格子戸の硝子が、表から提灯が見えるように上の方だけ透明になっていて、夜になると、格子の間から暗い路地へ、ほのかな提灯の明りを投げかけている様な情緒があった。
石だたみの敷かれた情緒のある道もあれば、通る人もまれな汚ない小路もある。若松町から吾妻町へ抜ける道は、小便小路と呼ばれた。『昭和四年住宅全図』を見ている。若松町より吾妻町へ抜ける道は一本しかない。これが小便小路と呼ばれた小路である。若松町の通りには、大須ホテルが載っている。大須ホテルは旭廓の時代は沈水と呼ばれ、花園町の金波楼と一、二を争う遊廓であった。四階建(一節には七階建)の洋館造りで、屋上にはバルコニーがあった。芸者と娼妓あわせて百人近くを置いていたという。明治三十六年の廓の大火事は、沈水楼の地下室の自家発電機から出火して起こったものだ。橋本、宮田楼、福田屋など大店が若松町には店を張っていた。「住宅全図」に吾妻町の西南角には汲田外科医院と書かれた広い一画がある。この病院の前身は技芸を教える「女紅場」である。後には「女紅場」は遊女の検診所となった。若松町も吾妻町も表通りには大店が店を張り、検診所があり人通りの多い道であった。表通りから裏へ抜ける小路は、人通りもまばらで薄暗い。これから遊びに行く人や酔っぱらいが小便をするのに絶好の小路であったろう。立ち小便おことわりの看板に、よく鳥居のマークを使う。これは罰があたるぞという意だ。式亭三馬の『浮世床』初編の口絵に長屋の入口が描かれている。口入屋、易者、祈祷師などさまざまな商売の看板にまじり、はさみを描いた小さな札がかかっている。はさみの上には「これだぞ、これだぞ」と書いてある。立ち小便をしたら、はさみで切るぞという意だ。「立ち小便お断り」と書くより、鳥居を描いたり、はさみを描いたりする方がユーモアがあってよい。吾妻町は俗名、堂裏といった。大須観音堂の裏手にあった町だからだ。現在の大須観音は南向きに建てられている。しかし、仁王門通りは東西の通りだ。焼失する前の仁王門が、東側にあり、大須観音が東向きに建てられていたことがわかる。吾妻町は観音堂の裏手にある花町であった。
昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後昭和45年に現在の南向きで再建された。(写真:名古屋都市センター蔵)
遊廓のあった西大須の地に、戦火にあわず昔ながらのたたずまいを残している一角が、今も残っている。閑所の奥には共同井戸がある。長屋の上には明りとりの窓がついている。しかし、早晩この風情のある景色も西大須の地から姿を消してゆくであろう。