栄国寺の由来からキリシタン博物館開館にいたる経緯、二代藩主光友の功績や戦災体験について栄国寺第19世住職 若松啓雅さんに語っていただきました。(2002年収録)
栄国寺について語る 栄国寺第19世住職 若松啓雅さん
栄国寺の由来
江戸時代の栄国寺周辺図栄国寺本堂犬山の塔野地というところの薬師寺というお寺から、キリシタン宗徒の慰霊のために本尊さんを迎えて1664年、1665年にかけてこの栄国寺が建立されたました。千本松原といって織田信長が桶狭間の戦いの時に日置神社という神社に祈願をしてそして出兵しました。戦勝したなえらばこのあたり一帯に松を植えるというところで、もちろん勝ちましたので千本の松がうちの境内にもいっぱい植わっていた。明治のはじめまであったわけですが今はありません。
戦災体験
昭和20年の3月12日の空襲でこの辺一帯に焼夷弾が落とされました。栄国寺付近に落ちたのは不発が多かったようで、みんなの手によって消される、あるいはうちの座敷に住んでいた聴講員のひとたちが一所懸命消してくれまして、栄国寺一帯の一丁四方にかけて焼け残りました。東別院は昔の高宗なお寺でしたが、だいたい3時間くらいで全部焼け落ちてしまいました。西は本町まで燃えてきてました。東は大津町近くまで燃えていた。北の方も、岩井通もいっぱい燃えましたが幸いにしてこちらまで燃え移って来ず、類焼を免れました。今では、各所にビルが建ち、駐車場になり、空地もそこそこ出来ておりますが、当時は、ちょっと東へ出ると東山の動物園が一望に見えるといった哀れな姿で点々と土蔵倉が残っていたという状態でした。
本町通
妙善寺 山門熱田神宮に通じる重要な道路を本町通といっておって、そこに七面山(妙善寺)というお寺がありますが、そこに茶屋でありました。当時、熱田までは非常な道のりがあり、あたりは草がぼうぼうとして追いはぎもでることもあって、熱田神宮に参る人は、そこの茶屋に自分の荷物を預かって熱田さんに参って帰りにまたもらって帰ると。最近はあんまりお彼岸とかに人は見えませんが、昔はお彼岸といえば春と秋に東別院と栄国寺、日置神社、西別院、大須と言うのが一つの参詣道路のようなもので、お彼岸だというと東別院の境内には、いっぱい露天商人がおり、栄国寺の境内にも露天商がならび、それこそ前に進むのに人に突かれて歩けないくらい沢山の参詣人であったわけです。
二代藩主光友の功績
東別院境内に立つ古渡城跡の碑橘座跡に立つ解説看板東別院は一如上人が光友(尾張藩二代藩主)さまから古渡城の跡をもらって、あの一角を東別院の宗門の中心に据えた。義直(尾張藩藩祖)さんの跡を引き継いで(城下の中心を)碁盤の目にしたのも、ほとんど光友さんの力です。大きな道を作って火災を防ごうとされたのは光友さんです。光友さんが栄国寺の向こうに小袖座とか橘座とかいう芝居小屋を造って始められているのに、宗春さんが徳川の本家に逆らうためにやったという、いわゆる小説的なことを、いかにも真実そうに世に伝えていくことは、訂正してもらいたい私の一言です。
切支丹(キリシタン)博物館
切支丹博物館内の展示品展示品 宗門人別帳佐藤銈一という人がいたんですが、その人はもともと仏壇屋であり骨董品収集の趣味があって沢山の骨董品を集めていらっしゃった。たまたま栄国寺がキリシタン遺跡だと、キリシタンに関係のある遺跡だということに感動されて、それならば私の持っているキリシタン関係の品々を学習のために、場所は小さくても名前は博物館という名前を付けると皆さんに関心をもってもらえるんで、博物館という名前で開設をしました。その当時は、博物館はそんなにありませんで、名古屋でも五つか六つしか無い時代に自分のコレクションの中から100点から120点をえらんで栄国寺に寄贈された。そして学習の場にして欲しいという依頼を受けて公表しています。
キリシタン塚キリシタン関係の事について東の方にはほとんど資料があるところがない。だから、栄国寺へ行って切支丹博物館で「見学していらっしゃい」というのでグループ学習、いわゆる5~6人の班で見学に来ています。キリシタン関係のことを知ろうとする学者は、栄国寺のことをほとんど知っていて、東京の方面、九州のあたりなど全国から見学に来ています。