連載
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2008年12月26日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第4回「世界は我が市場なり」
覚王山日泰寺の墓石の林立する小高い丘の上に市邨芳樹の墓がある。市邨芳樹は明治二十六年名古屋商業学校の校長に赴任して、数多くの経済人を育てた人である。 彼の墓の隣に、三井物産の筆頭常務として活躍した太田静男の墓が並んで立ってい...
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2008年12月19日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第3回「逝く者は終に還らず」
明治三十二年の六月、広小路通りを納屋橋から栄町に向けて歩いていた人たちは、奇妙なかたちの塔がにょっきりと前方に立ちふさがっているのを見て驚いた。砲弾型の二十二メートルもある高い塔だ。この塔は明治二十七・八年の日清戦争で戦死した兵士...
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2008年12月12日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第2回「名古屋に乗りこむ福沢桃介」
中部電力の発祥の地は広小路である。地下鉄伏見駅の東、電気文化会館の建っている地で、中部電力の前身、名古屋電灯会社が、点灯を始めたのは明治二十二年十二月十五日のことだ。この年は、会社が発足して二年目、勧業資金請願を出して十年近い年月...
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2008年12月5日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第1回「揚輝荘主人 伊藤次郎左衛門祐民」
明治四十三年関西府県連合共進会が、名古屋で開催されて、名古屋の町はかつてない異様な賑わいを呈していた。 この年、江戸時代から本町通りで営々と商売を続けてきた名古屋を代表する大丸屋の下むら呉服店が百八十二年の長い歴史の幕を閉じ...
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2008年11月28日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第9回「秤座 守随商店」
広小路通りが、本町通りと接する北側に木造三階建ての建物が偉容を誇っていた。他の建物を圧するかのように、広小路に面して建つ、この建物は秤屋の守随商店であった。 広小路通りで、最も古い歴史をもつ守随商店の前に、明治二十九年(一八...
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2008年11月21日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第8回「小宮山宗法」
『尾張名所図会』巻一に「本町六丁目小宮山宗法店」の図が載っている。小宮山宗法店は売薬店で、図には中風を治す妙薬の烏犀円の看板が大きくかかげられている。店の前の本町通りを往来する人々の表情もなごやかなものだ。笠を手に持ち、荷物を背に...
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2008年11月14日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第7回「名古屋の宣長」
“我宿は尾張の名古屋広小路 ほんまち西へ入南側”この歌の作者は植松有信だ。現代ならば、名刺に住所を刷って渡すことを、有信は歌によって、自分の家の場所を伝えている。名古屋広小路本町西、南側といえば柳薬師が建っている場所だ。その柳薬...
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2008年11月7日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第6回「厄払いしましょう」
火除地のために造られた広小路が、蒲焼町から出火した火事のため、大混雑する事件が起きた。 天保三年(一八三三)十一月一日のことだ。時間は明け方の四時少し前。出火場所は本重町と蒲焼町の間の新長屋だ。引越しをしてきたばかりの長屋の住人の...
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2008年10月31日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第5回「名古屋寄席ことはじめ」
高力猿猴庵は実に筆まめだ。町に起った出来事を書き記すだけでなく、見世物・芝居興行も丹念に記録している。『金明録』を読めば、名古屋芸能史の一端をたどることができる。 広小路で興行された話芸を『金明録』から抜き出してみよう。文政元年(...
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2008年10月24日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第4回「犬が広小路から消えた」
『正事記』によれば、万治三年(一六六〇)の大火により、火除地としての広小路ができる以前のこの辺は「これより以南、田野松原なりしゆゑに、山犬などの出て捨て子を食ひしことあり」という状態であった。狼が出没し、人の寄りつかない草深い荒地...