沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第4回「犬が広小路から消えた」

犬が広小路から消えた

『正事記』によれば、万治三年(一六六〇)の大火により、火除地としての広小路ができる以前のこの辺は「これより以南、田野松原なりしゆゑに、山犬などの出て捨て子を食ひしことあり」という状態であった。狼が出没し、人の寄りつかない草深い荒地であった。 広小路が出来て、さまざまな見世物が広小路にかけられるようになった。

『金明録』の文政元年(一八一八)六月の頃に次のような記述がある。

此節、広小路のおどけ開帳の仕舞し跡にて、狼の見せ物有。狗子等を喰せて人々に見せ、大評判也。然所に御深井のうはばみ、七間町の足跡杯にて色々の風説多く、世間おだやかならず、夫に広小路近辺は右見せ物始りてより、一向犬のほゆる事なく、夜中も甚陰気にて、諸人嫌候由。其上、御役所にても、此見せ物は不宜様に御沙汰有之、早々何方へ成共遣し候様、被仰渡候ゆへ、俄に相止め、おふかみは美濃辺へ戻し候由。

百五十年ほど前、出没した狼がふたたび広小路に姿を現した。しかし、今度の狼は残酷なショーを人々の前で演じてみせた。犬を狼に喰わせるという見世物だ。広小路から犬は姿を消してしまい、夜間にはさすがの広小路も人影が消えて、たいそう不気味な通りに変わってしまった。

広小路から犬の姿が消えるという騒動がなくても、この年の六月には不気味な事件が相次いで起った。高力猿猴庵は「御深井のうはばみ、七間町の足跡」をあげている。

御深井焼の釜を三巻まいて、頭を道につき出しているうわばみを磯吉という職人が見つけた。磯吉は、度胸のある男で、うわばみとにらみあいをして、ひるむことがなかった。仲間にも、このうわばみを見せようとして呼びに行った。仲間をひきつれ、戻って来た時には、うわばみはすでに姿を消している。磯吉は、その時、急に寒気におそわれ、病の床に就いてしまった。顔は、はれあがり、馬面のようになり、しばらく寝込んでいたという。
六月二十五日の早朝、七間町の一丁目から三丁目の間に不思議な足跡が見つかった。足跡は三本で地面に深くくい込んでいた。赤土は、赤色から黄色に変色していた。御堀の松がねじおられているという事件が前夜に起こっている。この足跡は、松をねじ切った怪獣のものではないかという噂がもっぱらであった。

狼に喰われるショーのため犬が広小路から姿を消したが、珍しい犬の見世物も広小路に登場している。文化七年(一八一〇)十一月の『金明録』は、次のように記している。

広小路に、珍敷犬の見せ物有。尾弍ツ、後の穴二ツ並び、陰門も二ツならびたり。白犬にて至極美しき犬也。

広小路では、さまざまな動物の見世物が出た。猿の曲馬が夜開帳に出たのは文政二年(一八一九)六月のことだ。この年の十月、大きな山椒魚を御園下の同心が笈瀬川ですくいあげた。さっそく、この山椒魚は、見龍と名づけて、広小路の見世物に出している。 文政五年(一八二二)には、広小路七間町の東側で人魚の見世物が出た。鼠色で大きさはすばしり程であった。毛は茶色、爪は白色であった。

いかがわしいものから、珍しいもの、さまざまな動物の見世物が広小路には出た。