名古屋に乗りこむ福沢桃介
中部電力の発祥の地は広小路である。地下鉄伏見駅の東、電気文化会館の建っている地で、中部電力の前身、名古屋電灯会社が、点灯を始めたのは明治二十二年十二月十五日のことだ。この年は、会社が発足して二年目、勧業資金請願を出して十年近い年月が過ぎていた。
明治・大正の広小路の写真が数多く残っている。電柱が無数に通りに立っているのに気づくであろう。現在では異様な光景だが、明治の時代では、電柱は家庭に明るい光をもたらす文明開化の象徴ともいうべきものであった。
名古屋が画期的変革を遂げたのは、開村三百年を記念して関西府県連合共進会が開かれた明治四十三年だ。会場となった鶴舞公園の二万六千個のイルミネーションを飾ったのが、名古屋電灯だ。
現在も現役で稼働している長良川水力発電所から鶴舞公園へ、イルミネーションを飾る電力は送られてきた。しかし、工事の遅れから開業前夜になっても電気は付かない。名古屋市長は、名古屋電灯の幹部たちに向い、電気がくるまで会場から一歩も外に出さないと息まく。イルミネーションが会場に煌々と輝いたのは夜の八時頃であった。
美濃市の長良川の川畔に瀟洒な登録有形文化財の赤レンガの建物、長良川水力発電所が建っている。この建物を、当時の人々は、憧憬をこめて歌った。
甜 清き長良の水上に 築き上げたる発電所
あれが名古屋の夜を照らす 粋な明かりの元かいな
共進会は三カ月で二百六十万人を集めた。名古屋の町は、共進会のために浮き足たっていた。この時、名古屋財界の心胆を寒からしめる出来事が起った。
福沢諭吉の女婿、桃介が、名古屋電灯の株を買い占めて名古屋に乗り込んできたのだ。三菱の岩崎久弥の巨額の金を借りて、名古屋の財界人が予想もしていない方法で、桃介は一万二十株の名古屋電灯の株を買い占めて、筆頭株主となった。この年の六月、桃介は最高幹部の常務取締役となる。当時は社長制ではなく、常務が会社を取りしきっていた。
後に桃介は大井ダムを完成させ、木曽川の水力発電を手がけ電力王と呼ばれるようになる。新派劇で活躍した川上音二郎と死別した貞奴が、桃介と愛の巣をかまえたのが二葉御殿だ。
貧乏な家に育ち、はだしで小学校に通ったという桃介は、金こそが全てであるという拝金主義者であった。数多くの財界人の伝記を著している小島直記は『人生まだ七十の坂』(新潮文庫)のなかで、面白いエピソードを紹介している。
晩年、精神修養のため桃介は、鎌倉円覚寺の管長、朝比奈宗源を自宅に招いて、しばしば講話を聞いた。途中、なんども桃介は中座して電話をとる。株の相場を知るためだ。宗源は度しがたい奴と怒って、二度と桃介の家の門をくぐらなかったという。
日泰寺にいかめしい桃介の顕彰碑が建っている。桃介の生き方をまねるような方法で、株の買い占めを行ない失敗した若き実業家が何人もいる。地下の桃介は、このような風潮をどのように見ているであろうか。