連載
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2010年3月5日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第5回「旭廊」
名古屋に初めて傾城屋(遊郭)が公認されたのは、七代藩主の宗春の治政下の享保十六年(一七三一)である。『名古屋史要』は、宗春の治政を次のように記している。 宗春は名古屋に取りて一時期を画したる君主なり。政治上に於ては解放主義と...
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2010年2月26日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第4回「紫川」
名古屋案内の冒頭に紫川が紹介されているのは、紫川が名古屋を代表する川であり、名古屋人に親しまれている証拠だ。しかし、その紫川は名前のような澄んだ清らかな水が流れる川ではない。「泥水悪水をチョロチョロと漂はせて居る」川だ。明治の名古...
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2010年2月19日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第3回「猫飛び横町」
大須の遊郭、旭廊のなかに音羽町という町があった。音羽町は大須観音の北、一本目の東西の通りが若松町、二本目が花園町、三本目が音羽町である。南北の通り、常盤町と富岡町の間にある町だ。 『昭和八年住宅地図』によれば、音羽町の通りは北側は...
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2010年2月12日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第2回「山の神」
街の中に「山の神」が祀られている。水神や石神と同じように素朴な原始的な民俗信仰の形態が名古屋の中心部に残っている。そのことにわくわくするような興奮を覚える。 神社は戦災にあった名残を濃厚に残している。散乱した礎石を集めて拝殿...
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2010年2月5日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第1回「赤門寺」
高力猿猴庵が描いたとされる『堀川御舟御行列之図』という巻物がある。何千人というおびただしい群衆が、堀川の船遊びを楽しむ聖聡院の一行を、両岸から眺めている図だ。 聖聡院は九代藩主宗睦の養子治行の夫人だ。御船行列が行なわれたのは享和二...
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2010年1月29日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第13回「テレビ塔の下に埋もれた芭蕉の旧宅」
元禄時代の松尾芭蕉と名古屋の都心にあるテレビ塔、その両者にどういうかかわりがあるのだろうか。関係を解くカギは『金鱗九十九之塵』に掲載されている。 俳諧師芭蕉翁桃青旧宅跡は、久屋町〔東区東桜〕角から西に入った南側にある。元禄年...
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2010年1月22日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第12回「別れの涙でぬらした小袖」
テレビ塔の下、公園の樹木のあいだに、一本の高札が立っている。高札には、この地に古くから、小袖塚と呼ばれている一つの小さな塚があったということが記されている。 『金鱗九十九之塵』は、小袖塚の由来を、次のように記している。 この...
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2010年1月15日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第11回「洋書の丸善」
『丸善社史』のなかに、丸善名古屋支店の設立の経緯が、次のように記されている。 明治七年八月名古屋支店が設けられ、豊橋の人原畴(店名近次)がこの時新しく入社してこの店を担当した。この店の開始に就て早矢仕虎吉の雑記に、名古屋にあ...
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2010年1月8日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第10回「旧三井銀行名古屋支店」
近代的なビルが建ち並ぶ広小路通りに、ひときわ異彩を放つビルがある。六本の古代ギリシャの趣きをたたえた円柱が並ぶ、旧三井銀行名古屋支店の建物だ。この建物は、地上二階でありながら、周囲の高層ビルに比していささかの遜色もなく、強い存在感...
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2009年12月25日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第9回「燃える不動尊 永林寺」
永林寺は広白山と号す、曹洞宗の熱田全隆寺の末寺である。清屋茂公が創建し、安室袒心が中興した。全隆寺の第二世の龍札が開山した。もともとは仲ノ町一丁目にあったが、明治年間に今の地に移ってきた。 永林寺は山の薬師と親しまれ、呼ばれていた...