連載
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2009年3月13日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第8回「広小路を電車が走る」
広小路通りを、のんびりと市電が走っていたのどかな姿は、遠い過去の面影の光景になってしまった。ゆっくりと走る市電の姿は、外から眺めれば、のんびりとした光景だが、市電の中はラッシュアワーともなると大変な混雑であった。市電だけが広小路を...
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2009年3月6日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第7回「買うか、買うまいか勧工場」
広小路通りを、のんびりと市電が走っていたのどかな姿は、遠い過去の面影の光景になってしまった。ゆっくりと走る市電の姿は、外から眺めれば、のんびりとした光景だが、市電の中はラッシュアワーともなると大変な混雑であった。市電だけが広小路を...
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2009年2月27日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第6回「紅葉屋事件」
本町通りを広小路を越え、末広町に向かって歩いてゆく。入江町筋を渡ると、通りに面して右側に紅葉屋がある。この店は、幕末、洋反物商として巨財をなした紅葉屋の屋号と経営権を譲られた番頭の浅野甚七が創立した店である。 明治三十四年(...
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2009年2月20日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第5回「開化期の商売繁盛記」
明治二十一年(一八八八)刊行の『尾陽商工便覧』は、尾張の代表的な商家を絵画で紹介したものである。この絵を見ていると当時の商家の様子と風俗をよくうかがうことができる。 広小路で紹介されている商家は、栄町では料理屋の喜楽亭だ。喜楽亭は...
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2009年2月13日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第4回「名古屋郵便電信局」
明治維新は、従来の価値観を根底から、くつがえすものであった。生活習慣も、旧来とはまるで異なったものへと変っていった。明治新政府は、西洋が三百年かかって、作りあげた科学文明を、十年ほどの間に、矢継ぎ早に取り入れていった。夏目漱石の言...
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2009年2月6日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第3回「秋琴楼事件」
明治三十二年に、中京新報が料理屋、旅館の人気投票を実施した。料理屋で最高点の11,113票を集めたのは、山田才吉の経営する東陽館だ。次いで西魚町の百春楼、半田亀崎の望洲楼とつづく。 旅館の部で、最高点の9,369票を集めたのは、...
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2009年1月30日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第2回「日本生命と野村銀行」
栄町の交差点は、名古屋の経済の中心であった。広小路を伏見に向けて歩いてゆく。 丸栄スカイルの地は、名古屋市役所が建っていたところだ。名古屋市役所の跡地である。この地に、茶屋町の伊藤呉服店が進出してきたのは、明治四十三年三月のことで...
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2009年1月23日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第1回「名古屋市役所と愛知県庁」
現在の中区役所が建っている地はかつて行政の中心であった。昭和8年に現庁舎に移転するまで名古屋市役所があり、広小路を挟んでななめ向かいに愛知県庁があった。 (昭和13年3月22日に現庁舎に移転) 廃藩置県が明治四年(1871)...
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2009年1月16日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第6回「広小路の拡張」
広小路は万治三年(一六六〇)の大火の後に、火除地として広げられた通りだ。大火の後、東は久屋町通りから、西は長者町までのあいだに、幅十五間(二七メートル)の広小路通りができあがった。 享和二年(一八〇二)六月、名古屋にきた滝沢馬琴は...
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2009年1月9日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第5回「納屋橋の石柱」
覚王山日泰寺の墓地の一画に、栗田末松の墓がある。墓は名古屋の街が一望できる小高い丘の上にある。 栗田末松の墓は、林立する日泰寺の墓の中でひときわ異色を放っている。墓地の入口が、納屋橋と伝馬橋の石柱でできているからだ。 石柱は、陽...