連載
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2009年7月31日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第8回「駐車場になった徴兵館ビル」
名古屋で、もっとも人通りが多く、賑やかな中心地はどこかと尋ねられたら、どの地点をあげるであろうか。高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅前をあげる人もいるであろう。あるいは、栄町の三越前をあげる人がいるかも知れない。戦前はまぎれもなく、名古屋...
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2009年7月24日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第7回「広小路ホテル事情」
明治三十五年に刊行された『愛知県独案内』という本がある。そのなかに有名旅館料理店の宿泊料、昼食代が掲載されている。 宿泊代のもっとも高い旅館は、現在明治屋の建っている地にあった秋琴楼だ。上等は一円五十銭、中等は一円、下等は七十五銭...
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2009年7月17日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第6回「映画の街の名宝会館」
名宝劇場、正式には名古屋宝塚劇場が広小路に開館したのは、昭和十年十一月三日であった。十一月一日付の名古屋新聞夕刊に、開館記念公演の広告が載っている。 中京に新生の大歓楽境 家庭共楽の殿堂! 東宝が誇る娯楽の合理化 暖冷房完備...
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2009年7月10日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第5回「赤い灯青い灯の広小路」
高島田に結った芸者が、広小路通りを歩いてゆく。現代では想像もできないことであるが、戦前の広小路には、多くの置屋があり、何百人もの芸者がいた。昭和十四年刊行の『名古屋案内』に広小路の芸者のすばらしさを紹介した次のような文がある。 ...
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2009年7月3日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第4回「赤い風車」
昭和四十年代、数多くのキャバレーが広小路界隈に点在していた。はなやかなネオンサインに誘われて、多くの酔客がキャバレーにすいこまれていった。脂粉の甘い香りと紫煙が場内にたちこめるなか、舞台では歌謡ショーが行なわれていた。 キャ...
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2009年6月26日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第3回「鬼より黒く恋より甘いブラジルコーヒー」
昭和十四年に刊行された『百万名古屋』に、広小路を紹介した次のような文が載っている。 広小路―― ブロウド・ウェイはニューヨークの、否アメリカの都会では、必ずメーンストリートとして存在する繁華な大通りである。 そのブロウド・...
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2009年6月19日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第2回「広小路商店街」
昭和四年五月調の『名古屋市居住者全図』を見ている。現在の中区役所の界隈は、当時は広小路通りの北に愛知県庁があった。県庁の東隣には、愛知県警察部があり、警察の南側には、広小路に面して新栄警察署が建っていた。県庁と広小路通りをはさんで...
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2009年6月12日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第1回「どて焼きとみたらし団子」
縦の幹線道路、本町通りには名古屋の有力商店が軒を並べていた。本町通りに店を構えることは名古屋商人の誇りであった。 横の幹線道路、広小路通りは、江戸時代から人々の憩いの場であった。本町通りにはみられない、人々の憩うことのできる...
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2009年6月5日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第10回「広小路ことはじめ」
大正元年の名古屋市の戸数は、九万四八九六戸、人口は四三万五二九人であった。 大正時代の名古屋の幕開けは、台風の襲来によって始まった。九月二十三日、午前五時から風速四十メートルの強風が吹き始めた。死者三十二人、家屋の倒壊は四十戸に及...
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2009年5月29日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第9回「大正時代の映画館」
名宝会館が解体されるとともに、名古屋に現存していた最も古い映画館、納屋橋劇場も姿を消してしまった。解体される前は、納屋橋劇場は成人映画を上映していた。劇場の前には扇情的なポスターが張られていて、その前を通るのも何か面はゆい感じがし...