逝く者は終に還らず
明治三十二年の六月、広小路通りを納屋橋から栄町に向けて歩いていた人たちは、奇妙なかたちの塔がにょっきりと前方に立ちふさがっているのを見て驚いた。砲弾型の二十二メートルもある高い塔だ。この塔は明治二十七・八年の日清戦争で戦死した兵士を顕彰するために建てられたものである。
朝鮮半島の利益をめぐり日本と中国は衝突し、日清戦争の宣戦詔勅が明治二十七年八月一日に出された。八月四日には名古屋の第三師団に動員命令が下った。名古屋市内からは三四八名、愛知郡からは六八五名が出征した。
第三師団は、第五師団とともに、第一軍に属し、平壤に向かって進軍を開始した。平壤では清軍が堡塁をきずき、日本軍を迎え討つ態勢を整えていた。八月十五日の未明から第一軍は、いっせいに攻撃を開始する。翌日の未明には、平壤に入城することに成功した。
平壤への入城を果たした第一軍は、退却する清軍を追って北進をつづけた。清軍は鴨緑江を渡り、防禦の陣をはった。第一軍は、十月二十四日、二十五日に渡河を敢行し、清軍を破り九連城に入城した。さらに清軍のたび重なる逆襲をしりぞけ、南満州の海城まで進軍し、十二月に攻略をはたした。
冬の満州の凍てつく荒野での激戦に対し「優勢の敵を逆撃し雪中数時間の激戦に堪え猛烈の奮闘を以て之を破る朕深く其忠通を嘉尚す」の勅語が第一軍に対して与えられた。
『歩兵第六連隊歴史』は、十二月十九日の記録を、途中道を失い、夕食を喫していない部隊も多く、凍傷に罹るもの一〇六二名の多きに達したと記している。この記録にあるように酷寒と輸送の困難をおして、第一軍は二十八年の二月から行動を開始し、鞍山・牛荘を攻略した。
三月十八日、清国は李鴻章を全権大使として講和を申し入れてきた。 この戦争において、現在の名古屋市域で八十名の戦死者が出た。そのうち病死者が六四名にのぼる。いかに過酷な自然の条件下における戦いであったかがわかる数字だ。
「日清戦役第一軍戦死者記念碑」が建てられたのは、広小路通りと武平町通りとが交差する地点だ。現在の中区役所の辺りだ。明治三十一年開通した電車の終点の広小路の真中に、この記念碑はすえられた。碑文には「明治二十七、八年の役第一軍の戦大小五十余回此間九閲月隆暑を冒し邪寒を凌ぎ深く不毛の地に入り……」と書かれている。
碑文の撰は、第一軍司令官陸軍大将野津道貫、書は参謀長陸軍少将の小川又次だ。材質は、戦利品の鉄砲武器で鋳造したもの、台石は人造石で固めた壇上に建立したものであった。
大正九年、記念碑は解体されて覚王山放生ケ池の畔に移される。 服部鉦太郎『明治・名古屋の顔』は、記念碑移転のいきさつについて、次のように記す。
栄町より千種町西裏まで開通したのが、明治三十六年一月三十一日であった。 そこで、電車は、この記念碑を組み上げた台座の石積の周囲を、半円を描いて千種の方へ東進し、あるいは栄町の方へ西進していた。この半円を行進する際に、キー・キーと異様な音響を立てる。これはレールの曲線と、車輪がキシムために起るもので、これがかなりの大音だった。普通の音声で会話していては、お互いに聞き取り難いほどの音響であった。
ところが、この記念碑の東北側に、県会議事堂があり、この議場では、電車の曲線進行の音響のため、議事の声が聞き取り難いということになり、ついにこの記念碑が移転されるという運命になった。
記念碑の碑文の中ほどに「逝く者は終に還らず」とある。酷寒満洲の原野で凍傷にかかり、病死したのは、名もなき農民の兵士であった。郷里で待つ妻子を想い異国の地で無念の死をとげる。
碑文を見上げながら、日清戦争とは何であったのかと考えていた。