名古屋の宣長
我宿は尾張の名古屋広小路 ほんまち西へ入南側
この歌の作者は植松有信だ。現代ならば、名刺に住所を刷って渡すことを、有信は歌によって、自分の家の場所を伝えている。名古屋広小路本町西、南側といえば柳薬師が建っている場所だ。その柳薬師の西側の家が、有信の住居であった。
有信は、この家で天明五年(一七八五)頃から版木師としての仕事を始めた。版木師とは、白紙に清書した版下を、版木に裏返しに張りつけ、その上から彫ってゆく仕事だ。 天明五年は父親、信貞の亡くなった年だ。父親は、尾張藩金方御納戸役であったが、安永三年(一七七四)事件に連座し、解職となり、浪人となった。この時、有信は十七歳であった。有信は、京都に行き、彫工の仕事を覚える。
天明三年、藩校の明倫堂が開校した。学問が盛んになると書物の需要がふえてくる。名古屋に帰ってきた有信に、彫工の仕事が殺到してきた。何人かの職人も使い、忙しい日々を送っていた。
彫工としての仕事を有信が始めた天明五年、尾張藩の用人、横井千秋が、本居宣長に弟子入りをする。千秋は、宣長の『古事記伝』を独力で出版したいと考え、宣長の許可を得る。『古事記伝』の版刻を行なったのが有信だ。
『古事記伝』は、全四十四巻からなる宣長畢生の大作だ。千秋にとっても、有信にとっても『古事記伝』の出版は、人生をかけての大事業であった。
宣長が『古事記伝』の執筆にとりかかったのは、明和元年(一七六四)頃のことだ。宣長はその後、三十九年かかり、寛政十年(一七九八)に、『古事記伝』を書きあげることができた。 『古事記伝』の最終刊が刊行されたのは、文政五年(一八二二)のことだ。
宣長が『古事記伝』を起稿して五十八年後、千秋の資金で、有信が版刻にとりかかった天明六年(一七八六)から実に三十六年かかっての完成であった。この間、宣長は、享和元年(一八〇一)に、死亡、千秋も、この年になくなっている。文化十年(一八一三)には有信も死亡する。
三人とも『古事記伝』全巻の完成を見ることはできなかった。
この本の完成には、さまざまな障害が起った。寛政二年(一七九〇)九月、『古事記伝』の第一帙(巻一~五)が完成した。『古事記伝』の版下[彫る前に、版木に貼る下書]を書いてきたのは、宣長の長男春庭だ。寛政二年、第二帙の版下にとりかかったが、眼が悪くなり、書くことができなくなってしまった。年末には完全に失明をし、第二帙の出版が大幅に遅れることになる。
『古事記伝』出版の資金提供者、横井千秋は寛政七年(一七九五)の秋から病の床につくことが多くなった。八年、病気からは立ち直ることはできたが、妻に先立たれてしまう。九年、資金を出すことのできなくなった千秋に変り、永楽屋がその後の出版をひきうけることになる。
有信の子孫にあたる植松茂の著作『植松有信』(愛知県郷土出版刊行会)に、この年、版刻のできた『源氏物語玉の小櫛』の一の巻の彫刻料のことが載っている。
玉の小櫛の一の巻は本文四十丁、序四丁、二の巻は六十三丁、合せて百七丁であり、その彫刻料として二十二両一分の手形を浜田侯から両人(高蔭と大平)が受取ったので、これを有信に送るということである。端数はあとで精算するとあるが、これで見ると一丁の彫刻料は二分強である。
当時の有信のくらしぶりのわかる記述だ。
『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』など宣長の代表作は、ことごとく有信の手にかかり、名古屋から出版されている。 名古屋から本居宣長の国学は、全国に発信していった。宣長の思想が浸透すればするほど、それに反対する勢力も多くなる。 『感興漫筆』に、次のような話が載っている。
明公(九代宗睦)の御代、本居宣長撰述の古事記伝を献納したいと願い出たところ、人見璣邑が許さなかった。しいてまた願い出た。璣邑は、「それならば私が、本の巻頭に書入れをして献上するが、それでもよいか」と言った。とにかくお願いしたいと言うので、璣邑が加筆して献上した。その書き入れには、「この本に書かれていることが、もっともであるとお思いになって、政治を行なわれるならば、大変なことになります。その点をよくお考えになって、この本を読んで下さい」という旨のことが書かれていた。
宗睦に『古事記伝』を献上したいと願い出たのは、横井千秋だ。千秋は、宣長を名古屋に招聘し、彼の国学的政治で藩の政治改革をしたいと考えた。それに反対するのが国用人、国奉行の人見璣邑だ。 璣邑は儒学的改革論者であり、明倫堂督学、細井平洲の信奉者だ。璣邑にとっては、宣長の儒仏に侵されない古代日本を追求する考えとは、大きなへだたりがあった。
宣長のもとに、千秋、有信、田中道麿、鈴木朖、樋口好古などそうそうたる人たちが集まり、弟子入りをする。宣長は寛政元年(一七八九)始めて名古屋入をし一週間滞在する。有松が宣長に入門したのは、この時のことだ。 寛政四年(一七九二)には、三月七日から二十四日まで有信の家に泊って講義を行なう。
寛政六年(一七九四)には、三月二十九日から四月二十二日まで約二十日間名古屋に来て講義を行なう。四月八日には有信の家が火事になり『古事記伝』第十五巻の版下、『玉勝間』の巻三の版下が紛失するという事件があった。 宣長が何度も名古屋入りをし、国学の普及をはかることに対し、儒学者、漢学者は執拗に抵抗する。『袂草』に、次のような話が載っている。
本居宣長を門人が尊敬して、先生は人間ではなくて神様であると真顔で言うのを、宣長の下女が聞いて気味の悪い顔をした。なぜかと尋ねると、宣長は、私を犯そうとして何度もいどみかかってきた。私は固く身を守り、犯されることはなかった。その人を神様にしては、天罰が下るでしょう。
最後に「可笑」と書いてある。嫌がらせとしか思えないうわさだ。しかし、反面、宣長の国学に対する恐れを表している話ともいえる。 宣長は尾張藩に招聘されず、紀州藩に勤めることになる。 名古屋で『古事記伝』を始め、多くの宣長の代表作が出版された。国学の普及に一役かったのは、有信をはじめ名古屋の宣長の弟子たちである。