連載
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2009年10月9日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第8回「地下はラッシュ、広小路はガラガラ」
友人とよく連れだって、広小路を散歩する。名古屋駅前に来ると、ミヤコ地下街に入る階段を思わず降りてしまう。駅前の地下街はJRや名鉄、近鉄の乗り場に通じていて便利だ。しかし、電車に乗るために階段を降りたのではない。 地下街には、...
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2009年10月2日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第7回「途中の喪失」
明治三十一年、京都に次いで、全国で二番目の電車が笹島と栄町の間に開通した。電車の開通は広小路に賑わいをもたらした。多くの人々が広小路に集まり、広小路を歩いた。 昭和十年代に入り、広小路を走る市電は満員の乗客で混雑をきわめていた。ひ...
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2009年9月25日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第6回「広小路の映画館」
名宝会館と道を隔てて東側に建っているのが朝日新聞のある朝日会館だ。朝日会館は石川純一郎の設計により、昭和十年に竣工した。硝子張りの塔を建物の上に載せたモダンな建物が、広小路を通る人々を驚かせた。朝日会館も幸いにして、戦火を免れるこ...
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2009年9月18日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第5回「広小路にあった笑いの殿堂」
すし詰めの劇場の中で、息をこらして舞台に立つ芸人を見つめていた。昭和三十年代の前半、劇場はいつも超満員であった。今は洒落た店が立ち並ぶ納屋橋川畔の西北角に、二つの劇場が建っていた。 通りを隔てて建つ劇場の名は、富士劇場と中央劇場と...
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2009年9月11日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第4回「丸く栄える」
丸栄百貨店の前を通り、明治屋に向けて歩いてゆく。歩道の端には、明り取りがついている。明り取りはバス停の前まで続いている。百貨店の建物は、明り取りが付いている部分だけ、わずかに歩道にせり出している。明り取りが付いている部分は、旧三星...
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2009年9月4日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第3回「オリエンタル中村興亡史」
名古屋には清須越以来の由緒ある商家が多い。時代の流れのなかで、それらの商家はいつしか姿を消していった。 本町通りに店を構えていた呉服店の変遷にも、すさまじいものがある。創業者の子孫が永々と店を護ってゆくのは至難のわざのようだ。子孫...
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2009年8月28日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第2回「進駐軍が広小路を闊歩する」
広小路がアメリカの進駐軍に占領されていた時代があった。 中西董の『米英占領下の名古屋』に、進駐軍の命令書が数多く紹介されている。その中に名古屋市長名で、「乗客に警告」という一枚がある。警告文は次のとおりだ。 名古屋観光ホテル...
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2009年8月21日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第1回「闇市」
戦後しばらくの間、白衣をまといアコーディオンをひく、片手や片足の傷痍軍人の姿をよく見かけた。納屋橋の上でも、道行く人に金銭の施しを乞う姿がみられた。戦争の傷跡は一面の焼野原となった街の光景だけでなく、人間の内面にも深い傷を落として...
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2009年8月14日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第10回「昭和二十年三月十九日 広小路」
いつしか、腹の中に轟くようなB29の爆音も、ヒュルヒュルと不気味な焼夷弾の落下音も遠くなっていた。死を覚悟してコンクリート壁に一家の命を託した、長く恐ろしい夜が白んだ。あれほど、地獄の業火のように、ほしいままに燃えさかっていた火、...
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2009年8月7日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第9回「突貫時間」
平成十年に納屋橋の上で、生徒と一緒になり三時三十分より四時三十分までの一時間の通行人調査を行なった。栄町方面から名古屋駅の方に納屋橋を通行する人は男五〇八人、女二三〇人の七三八人であった。名古屋駅方面から栄町に向けて納屋橋を通行す...