連載
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2009年12月18日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第8回「尾張藩の米蔵」
納屋橋の南、堀川の東岸には尾張藩の「御蔵」があった。江戸時代の租税は、主に米で徴収され、尾張藩の各地から集められた米は堀川をさかのぼり、ここ納屋橋のたもとに有った藩の御蔵に収められた。御蔵は税金を保管しておく大金庫のようなもの……...
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2009年12月11日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第7回「聖堂跡」
区制五十周年を記念して発刊された『中村区誌』に「八角堂址」として、次のような記述がある。 尾張藩時代、徳川義直が名古屋城二之丸御庭に建てた、わが国初めての聖堂という「金声玉振閣」。七代藩主、宗春が享保九年(一七二四)、水主町にあっ...
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2009年12月4日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第6回「明治橋」
笹島の交差点を東に進んでゆくと名鉄やJR、新幹線の高架の下をくぐり、牧野町に出る道がある。この暗くて狭いガード下の道を歩く人は、ほとんどいない。広小路から稲葉地に抜ける幹線道路の渋滞をさける車が、この道を通り抜けてゆくだけだ。 こ...
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2009年11月27日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第5回「三四郎の宿」
夏目漱石は明治四十一年九月一日から百十七回にわたって、朝日新聞紙上に小説『三四郎』を連載した。 『三四郎』は、熊本から上京する主人公が列車の中で、たまたま乗りあわせた子ども連の女と名古屋駅前の旅館に同宿する場面から始まる。漱石は、...
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2009年11月20日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第4回「公孫樹(いちょう)の大木」
その昔、堀川の流れに沿うようにして、江川が流れていた。江川は西区の稲生町から分流し、中川(中川運河の前身)に注いでいた。万治三年(一六六〇)の大火の時には、復興用の資材を、志段味の山から切り出し、江川を経由して運搬したという。今も...
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2009年11月13日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第3回「唐子車」
『尾張年中行事絵抄』に、次のような記述がある。 惣て町々の天王祭は朔日頃より五日、六日に至る。其内に此下納屋裏なる中之切は八日九日頃にあり、此時内屋敷より車をかざりて中之切の天王へ引なり。その道すがら俄思ひつきをなす。或年京...
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2009年11月6日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第2回「逍遥の愛した料亭」
坪内逍遥は、少年時代を名古屋で過ごした。 彼の生まれは、岐阜県美濃加茂市太田町である。明治二年、住み慣れた太田を離れて、逍遥の一家は名古屋に移住してきた。 逍遥と名古屋との係わりは深い。後にシエクスピアの研究家として、劇作家として...
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2009年10月30日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第1回「加藤商会ビルとカブトビール」
江戸時代、堀川に架けられた七橋のうち最も親しまれ、最も通行人が多いのは、名古屋のメイン・ストリートの広小路に架けられた納屋橋である。納屋橋は、慶長15年(1610)、遷府した際に架けられた橋だ。 納屋橋の中央には、バルコニー...
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2009年10月23日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第10回「広小路のヤナギ」
銀座に対する憧憬は、歌によって醸しだされている部分が大きい。戦前では、「むかし恋しい銀座の柳、あだな年増のあで姿……」と誰もがこの歌を口ずさんで、どんな遠隔地にいる人でも、一度は銀座に行ってみたいと思ったものだ。戦後、銀座から柳の...
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2009年10月16日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第9回「広小路のビルが曳かれてゆく」
テレビ放送が地上波からデジタル波に移行する。それとともにテレビ電波の発信を続けてきた名古屋テレビ塔も、その役割を終えることになる。 テレビ塔が久屋大通りの上にその勇姿を現したのは、昭和二十九年であった。 高さ百八十メートルの...