秋琴楼事件
明治三十二年に、中京新報が料理屋、旅館の人気投票を実施した。料理屋で最高点の11,113票を集めたのは、山田才吉の経営する東陽館だ。次いで西魚町の百春楼、半田亀崎の望洲楼とつづく。 旅館の部で、最高点の9,369票を集めたのは、広小路の秋琴楼だ。次いで竪三蔵町の名古屋ホテル、上園町の丸文とつづく。
名古屋屈指の旅館秋琴楼について、宮戸松斎の『尾張名所図絵』は、次のように記している。
秋琴楼は栄町に在り。其建築の宏大にして壮麗なることは、実は禿筆を以て、之を描写すべからざるものありといへども、先づ其一斑を云はば、則ち旅館に属する家屋の構造は層楼巍峨として屹立し、正面の玄関に相対して前に石門あり。始めて之を一見すれば、官衙の如く、また素封家の住宅の如きものあり。之に隣して楼主の居所あり。次は割烹旗亭あり。庖厨を注意精撰するが故に頗る美味なり。是を以て旅館及び料理共に此楼に及ぶべきもの市中広しといへども亦決して他に之あらざるなり。
最大級の美辞をもって、宮戸松斎が当代一流の旅館であると賞賛したのが秋琴楼だ。名古屋を代表する旅館にふさわしく明治の元勲、伊藤博文、板垣退助、星亨たちは、来名したおりにはこの旅館を常宿としていた。
秋琴楼を常宿としていた自由党の総板垣退助が、岐阜で暴漢に襲われたのは明治十五年の四月六日のことだ。板垣のかたわらにいた内藤魯一が暴漢の頭部をつきあげ、あおむけに押し倒したので、事なきをえた。当時、愛知県立病院長の後藤新平が人力車に乗り、岐阜まで駆けつけて治療にあたった。 国会の開設請願運動を背景として、愛知県は自由民権運動が、活発に展開された土地だ。
明治十六年、自由党と立憲改進党が秋琴楼を舞台として抗争する事件が起きた。 愛知県で勢力を持つ自由党に対し、立憲改進党は、三月、末広座において大演説会を開催し、党勢の拡大を計ろうとした。東京から来た弁士は、矢野文雄・吉浦英之助・尾崎行雄らだ。 十銭の入場料を払って、聴衆は入場した。末広座は、立錐の余地がないほどの超満員であった。会場では自由党の内藤魯一が指揮者となって、演説会を中止させようと手ぐすねひいて待ちかまえていた。
尾崎行雄が舞台にあがり、自由党を弾劾する演説を始めた。内藤魯一が合図をすると、自由党員が舞台にかけあがった。会場は大混乱となり、演説会は中止となった。翌日、秘密裡に立憲改進党の党員だけが集まり、秋琴楼で有志懇談会を開くことにした。
これを知った自由党員は夜、秋琴楼になだれ込み、汚物を詰めた酒だるを、会場の大広間に投げつけた。名旅館の掃除の行きとどいた広間は、異様な臭気を放ち汚物はちらばる。
政党の対立抗争のすさまじさを表す秋琴楼事件は、またたく間に全国に知れわたった。