広小路の拡張
広小路は万治三年(一六六〇)の大火の後に、火除地として広げられた通りだ。大火の後、東は久屋町通りから、西は長者町までのあいだに、幅十五間(二七メートル)の広小路通りができあがった。 享和二年(一八〇二)六月、名古屋にきた滝沢馬琴は『羇旅漫録』の中で、広小路の印象を次のように記している。
夏の日の納涼の地は広小路柳薬師前である。数十軒の出茶屋、見世物、芝居等があってたいそうにぎわっていた。柳の薬師より広小路の景色は江戸両国薬研堀に非常によく似ている。
江戸時代広小路が名古屋の中心の繁華街であったことを、よく表している文章だ。 明治時代になってからも、広小路はますますにぎやかな通りとなった。笹島に名古屋駅ができ、明治十九年三月一日に武豊と一宮間が開通し、広小路が名古屋駅に通じる幹線道路となったからだ。東海道線が名古屋を通るようになったのは、明治二十二年七月一日のことである。
中山道に敷設されることになっていた鉄道が、東海道を通るようになったのは、時の名古屋区長、吉田禄在らの並々ならぬ尽力があった。吉田禄在は、愛知県の土木課長黒川治愿とともに工務省鉄道局長井上勝に面会し、幹線鉄道は東海道に、駅は笹島にとねばり強く交渉した。吉田禄在らの努力が実り、東海道線が名古屋を通るようになり、駅は笹島に作られることとなった。
当時の笹島は、『名区小景』に
うららかに 春の霞の立ちこめて 鶯のなく ささしまの里
ささしまの田づらの宿にささなきて まだ里なれぬうぐいすの声
と詠まれているほどののどかな田園地帯であった。
広小路を拡張するために、吉田禄在は、自ら募集活動を始めた。区の財政事情は、広小路拡張工事のための六万七千円という費用をまかなえないからである。 一世帯十銭、二十銭という寄付金を募り、名古屋駅開業の明治十九年の五月に拡張工事はほぼ完成した。
この時、納屋橋は全部石材を使って改築された。同時に橋幅も広められた。 納屋橋を渡り、名古屋駅に通じる広小路の拡張工事が明治二十年の二月に完成した。平均幅員十三間の道の両側には、柳が植えられ、美しい名古屋を代表する通りとなった。
明治三十一年五月、京都についで二番目の電車が名古屋駅から、納屋橋を渡り、広小路を通り、久屋町の県庁前まで走った。 市民の足として七十七年間、広小路を走っていた電車も昭和四十九年には姿を消してしまった。