沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第4回「名古屋郵便電信局」

名古屋郵便電信局

名古屋郵便局と名古屋電信局(右手前)

名古屋郵便局と名古屋電信局(右手前)

明治維新は、従来の価値観を根底から、くつがえすものであった。生活習慣も、旧来とはまるで異なったものへと変っていった。明治新政府は、西洋が三百年かかって、作りあげた科学文明を、十年ほどの間に、矢継ぎ早に取り入れていった。夏目漱石の言葉を借りれば、それは、西洋文明を摂取し、醸成して創り出してゆくのではなく、西洋のものを、そのまま持ってきた猿真似のものであった。郵便制度・電信制度は、いちはやく西洋の制度を日本にそのまま取り入れたものである。

本町通りと広小路が交差する地点、鉄砲町一丁目が江戸時代の名古屋の中心であった。 明治四年十二月、鉄砲町の東南角に西洋文明の象徴ともいえる建物が、姿を現し人々を驚かせた。二階にテラスが付いている西洋館の建物は、文明開化の最尖端の郵便事務を開始するための名古屋郵便役所であった。郵便局と名前が変わるのは、明治八年一月になってからだ。 広小路を通る人々は、新しい時代になったことを、ハイカラな郵便局を見て実感したことであろう。

郵便局と改称した明治八年一月、始めて郵便為替金の取り扱いを始めた。明治九年には、市内往復郵便の制度を開始した。本町、橘町、船入町など九ヵ所に郵便受取所を開設した。十六年には、名古屋駅派出所、本町、古渡、伏見、久屋など十二ヵ所に分局を置いた。 明治十六年の郵便切手売捌所は七四ヵ所、郵便函は七四であった。明治二十年は切手売捌所、郵便函ともに七二であった。この年の通常郵便引受数は、百七五万六千八六通、配達は百八二万五千一五五通であった。

年々、郵便は市民になじみ、利用されてゆくようになる。 明治二十年十二月、鉄砲町の名古屋郵便局は、大垣の郵便局として移築されてゆく。さらに大正八年には大垣貯蓄銀行、大正十年には安八郡の、中川村役場へと建物は変ってゆく。 名古屋郵便局は、栄町に新しい庁舎を建設し、明治二十二年一月移っていった。

明治三十四年刊行の『大福帳』には、名古屋郵便局の跡地に盛商館と記されている。 盛商館は、当時流行していたバザーである。バザーにはさまざまなものを売る店が同じ建物の中に入っていた。盛商館と広小路通りをへだてた本町通りの東側、中村呉服店の北にも商栄館というバザーがあった。

盛商館のなかに饅頭屋が入っていた。『大福帳』は、饅頭屋について「目貫の場所、冬はまんぢう、夏は一盃五厘の氷屋への早変りで瞬間数百円の収入をせしめるとは、よくマアかんこう下には置けぬ床店」と書いている。バザーのことを勧工場と言っていたので、「かんこう」には、考える意と勧工場を掛けた洒落だ。「下には置けぬ」とは、盛商館の下で商売をしている意と丁重に饅頭屋を扱っている意が掛けてある。

なぜ盛商館が饅頭屋を丁重に扱わねばならないのか。盛商館は、饅頭屋の経営者である日の出軒をバザーにしようと交渉した。日の出軒は、日の出という名前を使えば土地を貸そうというので、日の出盛商館という名前になったという経緯があったからだ。

盛商館は繁盛していたが、栄町に中央バザーができると、人出を奪われ衰退してゆく。

名古屋電信局

名古屋電信局

名古屋電信局が鉄砲町に誕生した一年後の明治五年九月七日、郵便局と向かいあうかたちで、本町通り西側に名古屋電信局が建てられた。木造二階建て八十八・八平方メートルの西洋館は、郵便局とともに文明開化の象徴ともいえる建物であった。大工棟梁は南久屋町の鈴木幸右衛門であった。

この建物は明治二十年十二月まで使われた。明治二十一年には栄町の新庁舎へと移ってゆく。明治二十年の名古屋市の電報発信数は四七、五一四、着信は五二、八一一であった。

二十五年になると発信は八七、四六四、着信は八四、三七二と急増してゆく。 電信局の建物は天王崎にある愛知医学校に移り、二階は教官室、一階は生徒控室として使われた。

電信局の跡地に現在も建っているのが八木文商店だ。八木文商店は、メリヤス肌着、シャツ、チョッキなどを扱う現金問屋だ。顧客は遠く関東、東北地方にまで及んでいた。すでに大正時代から通信販売も行なっていた。カタログを送り、現金が届くと商品を発想するという方法で、店頭販売に劣らない販売実績をほこっていた。

壁に大きく屋号の書かれた倉庫が、戦火をまぬかれて今も、残っている。広小路通りに面したマンションにさえぎられ、倉庫は隠れてしまっているが、戦前には広小路通りに堂々たる倉庫が偉容をほこっていた。

濃尾地震で倒壊した名古屋郵便電信局(明治24年)

濃尾地震で倒壊した名古屋郵便電信局(明治24年)

明治開化の時代、本町通りをはさみ、時を同じくして誕生した郵便局と電信局は、明治二十一年六月、合併をし、名古屋郵便電信局と改称をした。新庁舎は、本町通りから一本東の住吉町一丁目に建てられた。赤レンガ造りの堂々たる建物であった。 堅牢なレンガ造りの電信電話局が、明治二十四年十月二十八日の濃尾大地震のため倒壊してしまった。『明治名古屋の事物談』(服部鉦太郎・泰文堂)は、当時の様子を次のように記す。

こうした地震のため、電信線は全線不通となり、各地との連絡は全く途絶してしまった。しかし、この非常事態において、最も緊急を要するは通信連絡である。局員は直ちに復旧作業に取りかかった。翌二十九日の午後には早くも一部を復旧し、当面の官報を至急私報のみを取り扱った。さらにこの時には広小路巡査派出所を利用して、臨時電信取扱所を開設して、一般公衆電報の取り扱いを開始することが出来たが、「頼信者は山のごとく一時に詰めかけ、電信取扱所の入口は、あたかも修羅場のようであった」と『震災録』は報じている。

文明開化とともに誕生した郵便局も平成の時代になって、大きく、その形態が変ろうとしている。

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