沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第10回「昭和二十年三月十九日 広小路」

昭和二十年三月十九日 広小路

いつしか、腹の中に轟くようなB29の爆音も、ヒュルヒュルと不気味な焼夷弾の落下音も遠くなっていた。死を覚悟してコンクリート壁に一家の命を託した、長く恐ろしい夜が白んだ。あれほど、地獄の業火のように、ほしいままに燃えさかっていた火、今はすべてをやきつくし異臭を放ってくすぶりつづけていた。恐怖に凍りついたまま、やっと目を開く。そこに見た光景は、どこまでもつづく、焦土と化した我が町、我が家だった。荒涼とした廃虚の中、人は力なく我が家とおぼしき焼けあとに、ぼう然とたちつくすばかりだった。こわれた水道管からほとばしる水は、湯のようにあつい。 (永田真璃子)

この文章は、終戦五十周年記念として、愛知県が戦争体験文集を集めて出版した『草の根の語りべたち』に掲載されたものである。 ここで語られている体験は、昭和二十年三月十八日の空襲である。この日の空襲は三十八回の名古屋空襲のうちの最大のものであった。B29二百三十機が来襲し、全市域にわたって爆弾と焼夷弾を炸裂させた。

終戦直後の広小路本町交差点,中央のビルが大和生命ビル〔旧徴兵館〕(名古屋市広報課提供)

終戦直後の広小路本町交差点,中央のビルが大和生命ビル〔旧徴兵館〕(名古屋市広報課提供)

広小路は、焦土と化し、体験文に書かれているように「荒涼とした廃虚」となってしまった。日銀名古屋支店の赤レンガの建物、松坂屋、大須観音など目ぼしい建物は見るかげもない姿と変わりはててしまった。木造家屋は、ことごとく焼き尽くされ、土蔵のみが残っていた。 この日の最低気温氷点下四・三度、最高気温一〇・八度。最低気温は前日についでのその月二度目の冷え込みであった。が、最高気温は前日よりも四・五度も上回ってきた。春のきざしが名古屋にようやくさしこんできたおり、市民の心胆を寒からしめる空襲であった。

プッ、ウーッ。独特のサイレンの鳴り方で空襲警報が鳴りひびいたのは、十九日の午前一時半であった。深い眠りをたたき起こす不気味な音だった。空襲警報のサイレンは、師団司令部から鳴り響いていた。空襲警報の音を聞いて、防空ずきんをかぶり人々はあわてて外に飛び出す。「空襲警報発令、空襲警報発令」と警防団員がメガホンで叫びながら通りをかけぬける。

午前二時半。熱田神宮の方からB29が飛来してきた。五機、六機と続く。広小路の上空でB29は旋回をし、東の方に機首を向け覚王山の方に消えてゆく。B29は焼夷弾を一発、二発と落としてゆく。広小路の上空を飛ぶB29の編隊は、一時間ほど栄町周辺を爆撃した。

広小路通りを、何百人もの人々が炎の中をくぐりぬけて、うごめいている。両側のビルや家は燃えつき、露地は火と煙につつまれている。さながら火炎地獄であった。 三月十九日の空襲による死者は八百余人、罹災家屋は四万戸にのぼった。 この空襲により多くの小学校が焼失した。広小路通りの北にある御園小学校も、全焼した。

上原猛著『集団疎開の記録』は、次のように記している。

御園学区遂に灰塵に帰し、全児童の全家屋焼失し、御園学校の校舎も鉄筋の一部三教室を残して全焼す。旧市街は焼瓦とコンクリートの塊の荒野と化す。 聯区民の路頭に迷ふ者また多かるべし。父を失ひ、母を失ひ、子を失ひ、兄を失ひ、妹を失ひし者も多々あるべし。

広小路はよみがえった。今、広小路を歩く人で、この戦争の悲惨さを何人の人が知っているであろうか。今日も日本から遠く離れた地では戦争とまがうような混乱が続いている。 どんなことがあっても、二度と広小路の戦火の中をさまようような戦争を起こしてはならない。

終戦直後の碁盤割り,右側の南北に延びる道が大津通り,上部中央が名古屋城(名古屋市広報課提供)

終戦直後の碁盤割り,右側の南北に延びる道が大津通り,上部中央が名古屋城(名古屋市広報課提供)