進駐軍が広小路を闊歩する
広小路がアメリカの進駐軍に占領されていた時代があった。 中西董の『米英占領下の名古屋』に、進駐軍の命令書が数多く紹介されている。その中に名古屋市長名で、「乗客に警告」という一枚がある。警告文は次のとおりだ。
名古屋観光ホテル前を通過する際は、車掌の指示により北側の窓の日覆いを必ず降ろして車外を見てはならない。亦乗客はホテルの進駐軍将兵を見下ろしてはならない。違反者は厳罰に処する。
名古屋に、最初に進駐軍が到着したのは昭和二十年九月二十六日午後七時だ。米軍第二五師団副司令官E・ブラウン准将率いる二十名近い先遣隊が、京都からジープに分乗し、名古屋観光ホテルに乗りつけてきた。翌日には百六十名余りの米軍部隊が、名古屋の大成小学校に進駐してくる。名古屋観光ホテルを強制軍用接収した米軍は前進司令部を設置し、後続の二五師団が名古屋港に上陸するのに備えた。
観光ホテルの玄関前には、戦車が広小路通りに面して配備された。自動小銃を構えた歩哨二名が、玄関先でにらみをきかせていた。ホテルの屋上には星条旗がかかげられていた。
警告文は、観光ホテルの前を通過する市電の乗客に対して出されたものだ。日本人は、米軍の進駐している観光ホテルを見たり、のぞいたりしてはいけないという警告だ。 次の警告文は、進駐軍より出されたものだ。
日本人は米国を尊敬すべし。日本人の車馬は米軍を追越すべからず。違反者は射殺する事あるべし。
リヤ・カーや馬車が荷物を満載して、広小路通りを通ってゆく。それらの車馬は、充分に米軍に敬意をもって通行せよというものだ。もし違反した場合には射殺をするという文面が、進駐軍の実態をよく表している。
後続の米軍二五師団の主力部隊が名古屋港に入港したのは、昭和二十年十月二十六日だ。この日、二万七千人、翌日一万五千人が上陸し、各地に進駐した。主力部隊の本格的な進駐により、司令部は観光ホテルから大和生命ビルに移された。観光ホテルはモラン師団長など高級将校の宿舎となる。おびただしい数の米軍のトラックやジープが広小路通りを往来した。
広小路通りに面した焼け残ったビルも、次々と米軍に接収されていった。納屋橋と笹島の間にある三井物産ビル、観光ホテルの前に建つ朝日新聞ビル、三菱商事ビル。観光ホテルと大和生命ビルの間にある電話ビル、住友ビル、そして大和生命ビルの前に建つ岡谷ビルなどだ。
名古屋城の前にはキャッスル・ハイツ、キャッスル野球場が造られた。東海郵政局の建物は、接収されて米軍専用の病院となる。隣接地はカマボコ兵舎となる。広小路と名古屋城をつなぐ本町通りは、米軍のジープが轟音をたてて通り過ぎてゆく。日本人の車両の通過を禁止する米軍専用の道路となった。
「虎の威を借る狐」の類の警告文も多く見られた。広小路通りの映画館では、軒並み次のような警告文が貼り出されていた。
進駐軍の厳命に依り、衣服に蚤やシラミを保有している者は、当館への入場を禁止する。
米軍の入場しない映画館に、このような警告文を出すいわれはない。映画館側が、浮浪者を断る口実として勝手に作成したものであろう。
大和生命ビルの正面玄関前には、米極東第五空軍司令部名で、次のような警告文が貼ってあった。
日本人に警告する。当司令部の前を下駄履きで通行することを厳禁する。違反した者は厳罰に処す。
終戦直後の日本人で、靴を買って歩くことのできる人は限られていた。大半は下駄履きだ。買うことのできない靴のかわりに下駄を履いていて、厳罰に処せられてはたまったものではない。
愛知県衛生部では、進駐軍の命令として、肥溜を積んだリヤ・カーが大和生命ビルの前を通ることを禁止した。化学肥料のない終戦直後、人糞だけが唯一の貴重な肥料だ。郡部の農家の人たちは、リヤ・カーで野菜を名古屋の街に売りにくる。空になったリヤ・カーには得意先から糞尿を汲み取り、肥溜に入れて帰ってゆく。当時の、そんな日常的な光景も広小路からは姿を消してしまった。肥溜車は大和生命ビルの百メートルも先から迂回して、通行しなければならなかった。
名古屋観光ホテルが米軍より返還されたのは、昭和三十一年十月十二日である。 大和生命ビルは、昭和三十一年二月に接収が解除された。米軍が闊歩する広小路通りが日本人の歩行する道にもどったのは、実に十一年ぶりのことであった。