突貫時間
平成十年に納屋橋の上で、生徒と一緒になり三時三十分より四時三十分までの一時間の通行人調査を行なった。栄町方面から名古屋駅の方に納屋橋を通行する人は男五〇八人、女二三〇人の七三八人であった。名古屋駅方面から栄町に向けて納屋橋を通行する人は男二二八人、女一三八人の三六六人であった。
明治三十四年九月一日の同じ時間に行なった納屋橋の通行人調査が『名古屋城と城下町』の巻末に掲載されている。それによると東から西に行く人は男一七四人、女三二人の二〇六人、西から東に行く人は男二一九人、女五三人の二七二人であった。
明治三十四年の名古屋市の人口は二六万七四九人である。二六万人の人口の明治三十四年と二百万人を超える人口を擁する平成の時代の通行人の数に差がないのは、なぜであろうか。西から東へ行く人は、わずかに平成の時代が九四人、東から西に行く人は五三二人多いにすぎない。
現代の広小路通りは大手の商社や銀行が軒を並べている。それらの会社に用を足した人たちがJRや名鉄、近鉄の名古屋駅に帰路を急ぐ。その通行人の数が平成の東から西へ行く人の数の多さとなっているだろう。
昭和十九年刊行の『名古屋市中区史』に大正時代と戦前の交通量調査が載っている。それによれば、大正十二年の三月における最大一時間の歩行者数は、栄町電停西で二四二五人、納屋橋上は一六四〇人だ。かなりの人数が栄町に出ている。 明治三十四年の納屋橋上を走る自転車は一時間三二台、大正時代は七四三台、平成十年に調査した時は三一九台であった。
自動車は、明治が一四六台、大正が三二台、平成が一二七八台であった。 現代のタクシーともいうべき人力車は明治時代が一二〇台、大正時代は九四台と減少している。
栄町角における交通量調査を見てみよう。 昭和三年における人力車の通行は、午前六時より午後七時までの東行が七七台、西行が八三台、一時間における最大数は東行が一二台、西行が八三台となっている。昭和四年は、東行九二台、最大一時間の通行は一三台、西行は一〇二台、一時間の最大数は一九台。昭和六年は東行四六台、西行四三台となっている。昭和十一年になると東行一四台、西行一一台とほとんど人力車の姿が栄町では見られなくなっている。
自転車の通行量の推移を見てみよう。昭和三年東行七、七〇八台、一時間最大は八四二台、西行七、〇五一台、最大六八七台である。昭和四年東行五、四九七台、最大八六〇台、西行五、八六七台、最大八五三台である。昭和六年は一日の通行量東行一二、一六〇台、西行一二、二六五台と前々年に比較し倍増している。さらに昭和十一年になると東行一二、九七五台、一時間平均九九八台、西行一四、一六一台、一時間平均一、〇八九台となっている。
自動車の通行量の方はどうであろうか。 昭和三年東行九三三人、最大一時間九一台、西行九二六台、最大一時間九三台である。昭和四年は東行八七三台、最大一時間一二二台、西行八九三台、最大一二二台。昭和六年東行六七八台、西行八〇六台だ。昭和十一年になると東行一、〇三三台、一時間平均七九台、西行は一、一一二台、一時間平均八六台だ。
当時の広小路の交通量について、『名古屋市中区史』は次のように記している。
街路の混雑よりうくる経済上、社会上の損失は実に名状すべからざるものあるに鑑み、高級街路桜通り新設の促進をみたわけだが、わずかに一部救済に過ぎない。而して支那事変以来著しく自動車交通が減速し殊に電車線並行の乗合自動車の運転廃止により混雑は軽減されたはずであるけれども、乗客は電車に集中し、必然の結果として最も甚しき混雑をきたしているのは電車である。故に広小路通をはじめ主要線には乗客を満載し得る多数の連結電車、ボギー車を運転し、乗換停留場以外の中間停留場の多くには停車せしめず、いはゆる急行或は特急運転を実施しているが、その混雑は四六時中毫も軽減さるべきもなく殊に朝夕の通勤者の通行は「突貫時間」に一時に起り、名状しがたき混雑をくり返しているのである。
昭和十一年の栄町における東行の電車は、午前六時より午後七時までの間で六〇六台、反対の西行の電車は六〇八台だ。一時間平均四七台の電車が、それぞれ栄町を西に東にと走っていた。 現代の広小路は自転車の跋扈する道だ。そこのけ、そこのけとばかりに突貫自転車が駆け抜けてゆく。