広小路商店街
昭和四年五月調の『名古屋市居住者全図』を見ている。現在の中区役所の界隈は、当時は広小路通りの北に愛知県庁があった。県庁の東隣には、愛知県警察部があり、警察の南側には、広小路に面して新栄警察署が建っていた。県庁と広小路通りをはさんで建っていたのが、新栄町郵便局である。県庁の北側には、愛知県第一高等女学校、その北側には中消防署があった。
日清戦争記念碑が大正九年、覚王山放生ヶ池に、解体され移築した跡地は、ロータリーとなっている。名古屋市役所は、広小路通りの南側に建っていた。 現在の中区役所の界隈は、昭和の初めまでは、官公庁街であった。 名古屋市役所が現在の庁舎に移ったのは、昭和八年、県庁が移ったのは、昭和十三年である。
本町通りをはさみ、一本東側富沢町の通りと広小路が交差する西南側に建っていたのが明治銀行、一本西側下長者町の通りと交差する東北角には、名古屋銀行が建っていた。名古屋銀行の隣に建っていたのが村瀬銀行だ。下長者町の一本西側の島田町の通りと交差する地点の西北角に建っているのが第百銀行支店、その東側には日本火災、その北側には愛国生命が建っていた。第百銀行と広小路通りをはさんで建っていたのが三菱銀行支店だ。
三菱銀行と島田町の通りをはさんで建っているのが興業銀行支店だ。島田町通りの西側の桶屋町と広小路の交差する地点には電車の桑名町の停留所があった。停留所の東北角には三井銀行支店、南東側には山口銀行支店、西北側には中央電話局、その西側には横浜正金銀行支店、その隣には不動貯金が建っていた。 広小路本町界隈だけでも、広小路通りには、これだけの名古屋の重要な銀行や保険会社が建っていた。広小路通りは、名古屋の金融街であった。
広小路通りは、道路の幅員は十一間一尺五寸(約二十メートル)、歩道は二間一尺五寸(約四メートル)であった。広小路通りには、銀行や保険会社ばかりではない。老舗の有名な商店が数多く店を構えていた。『大正昭和名古屋市史』の第三巻によれば、昭和十三年十二月調査の広小路の栄町通り(下長者町~武平町)に店を構える商店は七十九店、そのうち衣料品店は二十四、食料品店は十九、住料品店五、文化品店が三十一軒であった。
これらのうち、明治年間に開業した商店は二十四、大正九年までに開業したもの十七店、大正末年までのもの六店、昭和五年までのもの七店、昭和六年以降のもの十五店であった。夏期(四月~十一月)は、どの店も午前八時開店、午後十一時十五分閉店、冬期(十二月~三月)は午前八時三十分開店、午後十一時閉店であった。自己持店舗八店、借屋六十二店、住宅併用は三十四店であった。売場総面積の一店舗平均は八十六坪であった。
大正九年に、商店街の団体組織栄町発展会が結成された。この発展会は、広小路通りに面して店を持つ、栄町一丁目から七丁目までの商店、会社などを所有する百三十名の全員が加入していた。広小路の地価は最高坪二千円、平均して千円といわれていた。家賃は百二十五円五十銭であった。
下長者町通りから堀川の東端までは、新柳町である。新柳町発展会は大正十五年四月に結成された。会員は百二十二名で、新柳町の一丁目から七丁目まで、広小路通りに面して店や会社を構える全員が参加していた。商店の数は九十一、そのうち衣料品店は三十六、食料品店は二十二、住料品店八、文化品店二十四、生産用品店一である。
栄町商店街と同じように、新柳町も明治年間に開業したもの四十一店、大正九年までは十店、大正末年まで八店、昭和五年までのもの十三店、昭和六年以降のもの十七店である。開店時間は夏期は午前七時三十分、冬期は八時、閉店時間は夏期十一時二十分であった。自己持店舗七、借家八十一、住宅併用七十六、営業専用十二店であった。地価は最高千百円、平均七百円、家賃六十三円五十三銭であった。
栄町商店街も、新柳町商店街も工夫をこらして、顧客を集めていた。商店の数も多く、それぞれの店は個性ゆたかな営業をして、商店街は活気につつまれていた。現在の広小路は貸ビルが多く、商店街としての機能がうすれているように思う。