どて焼きとみたらし団子
縦の幹線道路、本町通りには名古屋の有力商店が軒を並べていた。本町通りに店を構えることは名古屋商人の誇りであった。
横の幹線道路、広小路通りは、江戸時代から人々の憩いの場であった。本町通りにはみられない、人々の憩うことのできる飲食店が広小路通りには軒を並べていた。
昭和八年の『名古屋市居住者全図』を見てみると、広小路本町の北側の西には、五軒目に寿司安、東に三軒目に不二屋がある。さらに東に行けば明治製菓がある。森永キャラメルがある。広小路通りは、人々が夕ぐれ時ともなるといずこともなく集ってきて散歩する道であり、食事をする道であった。
本町通りは、買い物をする店をあらかじめ決めてゆく道、広小路通りは、あてもなく歩く道であった。 東京の銀座を散歩する人を銀ブラ、名古屋の広小路を散歩する人を広ブラといった。広ブラをする人の楽しみは、通りに面した店で、お茶を飲んだり、食事をすることであった。
昭和八年、栄町角にキリンビールの直営ビヤホールが開店した。店には当時としては珍しい、ネオンの点滅する大きな看板がかかげられていた。トンカツが評判であった。 近くにはカフェーパウリスクがある。コーヒーは十銭で、新聞記者のたまり場であった。
本町通り近く、明治銀行の地下には、明治食堂があった。食堂の中央には、池が造られ、噴水からは、水がわきでていた。この店の特色としては、女性専用の席が設けられていたことと蛙料理を出していたことだ。蛙スープは四十銭、フライは四十五銭、シチュー五十銭であった。
広小路、南呉服町角の十一屋百貨店の四階には食堂があった。食堂の窓からは、名古屋城や遠く養老や伊吹の山々を眺めることができた。カレライス、ハヤシライスは三十銭でコーヒー付であった。中食(昼食)は六十銭で、さしみ、塩焼、椀盛(汁料理)、新香(漬物)が出た。 当時中京一といわれた東鮓では、鮪、鳥貝、鯖、海苔巻、伊達巻と八個盛合せの握り鮓で四十銭であった。
名古屋広小路のヤーエ、ヤットコセーヨーイヤナ、名古屋広小路の柳の下に、士(さむらい)がひとり、どなたであろう、小野道風かわずて立っておるヨーイトナ
これは海部郡地方で歌われていた松前節だ。「かわず」には、蛙と買わないの意が掛けてある。小野道風は、蛙が何度失敗しても柳の枝に飛びかかるのを見て、書道に精進したことで知られている。小野道風は、蛙を見て発憤したが、広ブラの人は、屋台をひやかすだけで、何も買わない。それをからかったのが、この歌だ。
広小路といえば、この歌にあるように最盛期には六十業種、三五六店の屋台が並んでいた。 瀬戸物屋では、一個一銭というコーヒー茶碗を売っている。植木屋には、盆栽が所せましと並んでいる。永屋からは一杯五厘五厘の売り声が聞こえてくる。古道具屋には、抹茶茶碗、建水、水注(みずさし)、棗(なつめ)などが並んでいる。 なかには珍しいものを売っている店もあった。雑誌『婦女界』の依頼で、半田出身の作家、小栗風葉が広小路の夜店の探訪に出かける。その記事『広小路の夜店』(郷土読本所収・愛知県郷土資料刊行会覆刻)より引用する。
数ある夜店の中から名古屋人には、こういう物が向くのだと教えてくれたのは、駒下駄の歯へ打つゴム。ちょっと見ると自転車のタイヤの上りの様で、それよりも少し狭いものを下駄の巾だけに切って四枚一足分金二十五銭。ゴムはへっても歯はへらず、足あたり柔らかくカイリヨシと招きの口上にあるのを、誰やら改良しと読んで大笑い。カイリヨシ、下駄の招きがよいという意味。店先のこの問答を聞いていた店主のおやじが苦笑いして、 「どっちでもお客さまのええよに読んどいてちょうだえて、一足どうだぇも」
宇野浩二の小説 に『如露』がある。これは広小路で、幼い頃の三重次という浩二の恋人が祖母と如露を売っていたという三重次の回想を描いた小説だ。
広小路の屋台の中心は食物屋だ。
食物屋のなかでは、みたらし団子の店とどて焼きの店が多かった。小栗風葉は「みたらし団子という看板の屋台店が至る所にある。名古屋はよっぽど団子の好きなところと見える。ミタラシは蜜たらしで、ふかし団子に砂糖蜜をつけ、豆粉【きなこ】をまぶしたものだと記憶している」と書いている。名古屋のみたらし団子は米粉の団子を焼いて砂糖醤油をつけたものだ。風葉のいう蜜たらしの団子ではない。一串五個位で大は三銭、中は二銭、小は一銭であった。
みたらし団子を食べた後、風葉が入った店がある。
屋台店の食い物で、もう一つ辰夫君(同行の記者)にすすめられて味ったのは、おでん。辰夫くんは東京の煮込みおでんのつもりで這入ったのだが、ここのは串ざしのこんにゃくと肉とをどろどろの味噌汁の中へ煮込んだので、つまり煮込みおでんと味噌田楽との合の子のような物、味噌あじもののすきな自分などにはまんざらでもなし。 風葉が食べたものは、名古屋名物のどて煮だ。肉や蒟蒻を味噌の鉄鍋でぐっぐっ煮こんだものである。 広小路名物の屋台は、昭和四十八年に姿を消した。