広小路ホテル事情
明治三十五年に刊行された『愛知県独案内』という本がある。そのなかに有名旅館料理店の宿泊料、昼食代が掲載されている。 宿泊代のもっとも高い旅館は、現在明治屋の建っている地にあった秋琴楼だ。上等は一円五十銭、中等は一円、下等は七十五銭だ。秋琴楼と並ぶ格式の高い旅館が栄町の多波良だ。宿泊代は上等一円五十銭、中等八十五銭、下等七十五銭であった。
名古屋で最初の洋式ホテル支那忠が誕生したのは明治二十年のことだ。場所は、広小路通りから一本北に入った富沢町通りと蒲焼町筋に面した一角だ。支那忠という店名は、慶応元年に旅館信濃屋を開いた四代信濃屋忠右衛門を略して、信濃忠が支那忠となったものだ。 ホテル支那忠は、明治三十年、泥江町に移り、四十年には廃業する。
『愛知県独案内』によれば、このホテルの値段は破格のものだ。上等は七円、中等五円、下等は四円だ。昼食代は上等が二円三十四銭、中等は一円六十七銭、下等は一円三十四銭だ。明治十二年、笹島交差点の角に開業した支那忠支店は、駅前旅館として親しまれ、駅弁でも名をはせた。
支那忠についで、明治二十八年竪三ツ蔵町に木造洋館の名古屋ホテルが建った。このホテルは和室の上等は二円、洋室は五円五十銭であった。中等は和室一円五十銭、洋室四円五十銭だ。昼食代は和食の上等は五十銭、洋食は一円七十五銭であった。
広小路に面して建つ名古屋観光ホテルは、名古屋財界が総力をあげて建てたものだ。
昭和三年、十月十六日の名古屋ロータリー倶楽部の例会で、会長の伊藤次郎左衛門祐民は、名古屋に国際級のホテルを造りたいと提唱し、了承された。その後、昭和五年からの不況のため建設計画は中断された。紆余曲折を経て、政府より百三十万円の低金利融資の話がまとまった。
昭和九年九月十四日、株式会社名古屋観光ホテルが正式に発足した。取締役社長は青木鎌太郎であった。豊田利三郎、高橋正彦、白石勝彦、白木周次郎、広瀬宗光、加藤勝太郎の名古屋財界の錚々たるメンバーが取締役として名を連ねた。設立時の株主は百十一名、株式総数は三万株、一株あたり五十円であった。名古屋に国際ホテルを建設しようと提唱した伊藤次郎左衛門祐民は二千株、豊田利三郎、岡谷惣助、大倉喜七郎等七名が千株をひきうけた。加藤勝太郎、徳川義親、高橋正彦、神野金之助などは五百株の株主となった。建設する場所は、名古屋でもっとも人通りの多い広小路に面した現在地に決まった。
時の名古屋市長大岩勇夫は、名古屋で国際的な博覧会を開きたいと考えていた。この計画は、名古屋汎太平洋平和博覧会として、熱田前新田で、昭和十二年三月十五日から五月三十一日までの七十八日間開催されることになった。外国からの来客者のためにも、名古屋に超一流のホテルを建設しなければならない。建設に拍車が掛かった。
支配人として東京帝国ホテル副支配人の井上行平が呼ばれた。井上の補佐役として山崎文次が嘱託として着任した。山崎文次は後に観光ホテルの常任監査役となる。
広小路には幾つものホテルが建っている。広小路は名古屋の中心の通りであり、名古屋の顔であるからだ。