沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第9回「広小路のビルが曳かれてゆく」

広小路のビルが曳かれてゆく

昭和29年、建設中の名古屋テレビ塔(名古屋市広報課提供)

昭和29年、建設中の名古屋テレビ塔(名古屋市広報課提供)

テレビ放送が地上波からデジタル波に移行する。それとともにテレビ電波の発信を続けてきた名古屋テレビ塔も、その役割を終えることになる。

テレビ塔が久屋大通りの上にその勇姿を現したのは、昭和二十九年であった。 高さ百八十メートルのテレビ塔は、当時日本一の高さであった。九十メートルの展望台からは、名古屋の街を一望することができた。

杉本健吉が描いた完成記念ポスターには、三層の雲をつらぬいて、そびえ立つテレビ塔が描かれている。高層ビルの建っていない当時、展望台に立った人は、雲の上に昇ったような感じになったであろう。 テレビ塔の建設は、その後、昭和三十三年に東京タワー、三十六年に横浜マリンタワー、三十九年に京都タワーなど各地にタワーブームをひきおこすきっかけとなった。

テレビ電波の発信、観光施設という目的の他に、テレビ塔は戦災復興事業のモニュメントとしての役割をになっていた。

テレビ塔の立つ久屋大通りは、若宮大通りとともに、百メートルの幅をもつ道路である。二本の百メートル道路を通すことと市内の墓地を平和公園に移転させることは、戦災復興事業の基幹をなす構想であった。 空高くそびえ立つテレビ塔は、新しい都市名古屋の象徴であり、復興事業のモニュメントとして、もっともふさわしいものであった。

百メートル道路を通すには、多くの民家やビルを移転させなければならない。朝日生命保険名古屋支社は、現在の久屋大通りの中心部、広小路通りの南側に建っていた。地上四階建て、地下一階、五三九坪の建物は、戦後米軍に接収され、ダンスホールなど慰安施設として使われていた。昭和三十年に返還され、移転することとなった。移転先は南へ約二百米行った東側だ。移転には、ビルをそのまま曳いてゆくという曳家移転工法が用いられた。移転には、百メートル道路予定地の上を移動しなければならない。しかも、移転先までには二本の道が立ちふさがっている。

移転にあたり地下部分は切断された。地上部分の上部で柱と壁を切断し、地上部分を移動させる工法がとられた。 工事は昭和三十四年四月に始まった。枕木の上にレールを敷込み、転動装置をつける。建物を二十二メートル移動させたところで、九十度回転を行なった。さらに南に二百米移動する。途中、道路を横断する。道ゆく人は、四階建てのビルが動いてゆくのを見て、さぞかし驚いたことであろう。二百米移動したところで、さらに九十度回転を行なう。百八十度の回転により、従来北を向いていた部分が南向きとなった。

完成後の名古屋テレビ塔(名古屋市広報課提供)

完成後の名古屋テレビ塔(名古屋市広報課提供)

現在の久屋大通りの中心部には、料亭の翠芳園が四百三坪の敷地のなかで、木造瓦葺きの二階建てを始めとして、多くの建物のなかで営業していた。当初は仮換地に移転する計画であったが、鉄筋コンクリート造りで建て替えられることになった。翠松園の跡地は、現在中区役所の南側の駐車場となっている。

広小路通りの拡幅工事は難渋をきわめた。鉄筋コンクリート造りのビルが通りに面して多く建っているからだ。移動方法としては、日本生命名古屋支社、富国生命保険、日本銀行名古屋支店などは建物を解体して処分する除却工法がとられた。

明治屋、丸善名古屋支店、朝日新聞などは、曳家移転工法が行なわれた。 名宝ビル、静岡銀行納屋橋支店、東海銀行栄町支店などは、拡幅する道路に障害となる建物の一部を除却する工法がとられた。

役割を終えたテレビ塔の西側に、観覧車が空高く回っている。観覧車の前では、名古屋テレビ塔に昇るためにむかし何時間も並んで待っていたように、多くの人々が列をつくって並んでいる。

現在の久屋大通

現在の久屋大通