三四郎の宿
夏目漱石は明治四十一年九月一日から百十七回にわたって、朝日新聞紙上に小説『三四郎』を連載した。 『三四郎』は、熊本から上京する主人公が列車の中で、たまたま乗りあわせた子ども連の女と名古屋駅前の旅館に同宿する場面から始まる。漱石は、小説の中で名古屋駅前の場面を次のように描いている。
九時半に着くべき気車が四十分程後れたのだから、もう十時は過ってゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の様に賑やかだ。宿屋も眼の前に二三軒ある。ただ三四郎にはちと立派過ぎる様に思はれた。そこで電気燈の點いてゐる三階作りの前を澄して通り越して、ぶらぶら歩行いて行った。無論不案内の土地だから何處へ出るか分らない。只暗い方へ行った。女は何とも云ずに尾いて来る。すると比較的淋しい横町の角から二軒目に御宿と云ふ看板が見えた。之は三四郎にも女にも相応な汚ない看板であった。三四郎は鳥渡振返って、一口女にどうですと相談したが、女は結構だといふんで、思ひ切てずっと這入った。
この小説の冒頭部分のみで、三四郎の泊った旅館はどこであろうかという議論がなされている。ここが三四郎の泊った旅館の跡であるという標識までが、道端に立てられている。 服部鉦太郎は『明治・名古屋の顔』で三四郎の泊った旅館は、角屋であるとして、次のように記している。
当時の名古屋停車場は、現在の名古屋駅より少し南の住友銀行笹島支店のあたりにあったから、二人の歩いた道は、広小路通りを東に向っていたものと思われる。そして横町のかどから二軒目、この宿屋にはいり、“梅の四番”に通されることになる。 この宿は、実は漱石が「旅館角屋」をモデルとしたものと伝えられる。 この「旅館角屋」の所在は、中村区広小路西通三丁目(笹島交差点東南)犬飼八郎さん経営。明治二十五~六年ころ、名古屋駅前旅館として建てられたが、当時の持ち主が経営不振から手放したのを、大正の初め、犬飼八郎さんの先代が受けついで、漱石文学のモデルとしてその孤影を守って来たもの。場所も屋号も変らず、内部の部屋もほとんど当時と同じ間取りである。
三四郎の泊った旅館を角屋とするのは、いささか牽強付会の感がする。漱石はどこにも角屋とは書いていない。駅前の部分は、名古屋駅前でなくても、どこの都市にでも通るような描写の仕方だ。当時の名古屋駅前の大きな旅館としては、広小路の突きあたりに丸万旅館、志那忠支店がある。熊本の田舎から上京する三四郎には、丸万や志那忠に泊る路銀はない。広小路通りから小路を曲り、商人宿のような粗末な宿に泊る。
漱石は名古屋に来たことは一度もない。名古屋駅前の『三四郎』の描写は、漱石の想像力の所産であって、実際に自分の目で見た情景を描写したものではない。『三四郎』の冒頭部分の設定を考えた漱石は、義弟の鈴木禎一に駅前の情景を参考に聞いたことがあるかも知れない。
三四郎の泊った旅館を角屋として、それをモデルとして書かれた小説ではない。 三四郎の泊った旅館は、小説のなかの架空の旅館と考える方が穏当であろう。 駅前十八館と呼ばれるほど駅前に多くの旅館ができ、活気を呈するようになったのは、三四郎が泊ってから二年後の明治四十三年からだ。鶴舞公園で開催された関西府県連合共進会に名古屋に来る客を目当てに、駅前には雨後のたけのこのように新築の旅館が林立した。
夏目漱石は、『三四郎』を執筆する一年前、明治四十年に年俸八百円の東京帝大講師を辞職し、朝日新聞に年俸三千円で入社した。この年、石川啄木は岩手県渋民村を去り、北海道に渡り函館の弥生小学校で月給十二円の代用教員となった。