沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第7回「聖堂跡」

聖堂跡

法蔵寺の背後には名古屋駅前の高層ビルが見える

法蔵寺の背後には名古屋駅前の高層ビルが見える

区制五十周年を記念して発刊された『中村区誌』に「八角堂址」として、次のような記述がある。 尾張藩時代、徳川義直が名古屋城二之丸御庭に建てた、わが国初めての聖堂という「金声玉振閣」。七代藩主、宗春が享保九年(一七二四)、水主町にあった法蔵寺の本堂として下賜した。それが八角形であったところから、この寺は八角堂と呼ばれていた。 昭和六年に惜しくも焼失し、現在は基礎しか残っていない。

江戸時代、八角堂法蔵寺境内の図面(資料提供:八角堂法蔵寺)

江戸時代、八角堂法蔵寺境内の図面(資料提供:八角堂法蔵寺)

焼失した八角堂が再建され、今は、毎月第一土曜日に一般公開されている。 八角堂法蔵律寺は、もともとは春日井の密蔵院の末寺であった。替地出来町にあったが、享保元年(一七一六)、熱田新尾頭町にあった尊寿院の控屋敷に寺を移した。さらに享保九年には、水主屋敷の跡地に引き移った。 水主屋敷は享保八年に取りこわされ、町屋となった。江戸時代は西側ばかりの片側町なので、西水主町と呼ばれていた。 寛延四年(一七五一)、東叡山の末寺となった。

聖堂(せいどう)は孔子やその他の聖賢を祀った堂のことだ。東京湯島にある聖堂は儒教建築の典型的遺構として名高い。湯島の聖堂は、元禄三年(一六九〇)将軍綱吉が林羅山の学問所であった忍ヶ岡の先聖殿を湯島に遷して建立したものである。

細野要斎が安政二年(一八五五)に記した『聖堂記』という書物がある。この書は別名『明倫堂始原』ともよばれている。別名のように聖堂は東照宮の地にあった明倫堂の前身にあたるものである。 『聖堂記』の中に、次のような一節がある。

先聖殿 御額源敬様御真筆にて御座候。御裏書草書にて被遊置候、殊に二月丁日に御座候得ば、御釈典之日御染筆被遊候に奉府候。左候へば八角堂聖堂之節之御額与相見申候。

どのような思いで、志賀の里の人が、この六地蔵を立てたかはわかりません。
もともと、この六地蔵は志賀公園の東北隅の墓地にあったものを安栄寺に移したものです。
この世では、けっして幸福であったとは思わない死者を、六地蔵によって、六道のよい道に入っていくことを祈って立てたものではないでしょうか。

再建された八角堂

再建された八角堂