沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」
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2009年2月6日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第3回「秋琴楼事件」
明治三十二年に、中京新報が料理屋、旅館の人気投票を実施した。料理屋で最高点の11,113票を集めたのは、山田才吉の経営する東陽館だ。次いで西魚町の百春楼、半田亀崎の望洲楼とつづく。 旅館の部で、最高点の9,369票を集めたのは、...
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2009年1月30日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第2回「日本生命と野村銀行」
栄町の交差点は、名古屋の経済の中心であった。広小路を伏見に向けて歩いてゆく。 丸栄スカイルの地は、名古屋市役所が建っていたところだ。名古屋市役所の跡地である。この地に、茶屋町の伊藤呉服店が進出してきたのは、明治四十三年三月のことで...
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2009年1月23日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第1回「名古屋市役所と愛知県庁」
現在の中区役所が建っている地はかつて行政の中心であった。昭和8年に現庁舎に移転するまで名古屋市役所があり、広小路を挟んでななめ向かいに愛知県庁があった。 (昭和13年3月22日に現庁舎に移転) 廃藩置県が明治四年(1871)...
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2009年1月16日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第6回「広小路の拡張」
広小路は万治三年(一六六〇)の大火の後に、火除地として広げられた通りだ。大火の後、東は久屋町通りから、西は長者町までのあいだに、幅十五間(二七メートル)の広小路通りができあがった。 享和二年(一八〇二)六月、名古屋にきた滝沢馬琴は...
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2009年1月9日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第5回「納屋橋の石柱」
覚王山日泰寺の墓地の一画に、栗田末松の墓がある。墓は名古屋の街が一望できる小高い丘の上にある。 栗田末松の墓は、林立する日泰寺の墓の中でひときわ異色を放っている。墓地の入口が、納屋橋と伝馬橋の石柱でできているからだ。 石柱は、陽...
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2008年12月26日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第4回「世界は我が市場なり」
覚王山日泰寺の墓石の林立する小高い丘の上に市邨芳樹の墓がある。市邨芳樹は明治二十六年名古屋商業学校の校長に赴任して、数多くの経済人を育てた人である。 彼の墓の隣に、三井物産の筆頭常務として活躍した太田静男の墓が並んで立ってい...
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2008年12月19日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第3回「逝く者は終に還らず」
明治三十二年の六月、広小路通りを納屋橋から栄町に向けて歩いていた人たちは、奇妙なかたちの塔がにょっきりと前方に立ちふさがっているのを見て驚いた。砲弾型の二十二メートルもある高い塔だ。この塔は明治二十七・八年の日清戦争で戦死した兵士...
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2008年12月12日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第2回「名古屋に乗りこむ福沢桃介」
中部電力の発祥の地は広小路である。地下鉄伏見駅の東、電気文化会館の建っている地で、中部電力の前身、名古屋電灯会社が、点灯を始めたのは明治二十二年十二月十五日のことだ。この年は、会社が発足して二年目、勧業資金請願を出して十年近い年月...
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2008年12月5日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第1回「揚輝荘主人 伊藤次郎左衛門祐民」
明治四十三年関西府県連合共進会が、名古屋で開催されて、名古屋の町はかつてない異様な賑わいを呈していた。 この年、江戸時代から本町通りで営々と商売を続けてきた名古屋を代表する大丸屋の下むら呉服店が百八十二年の長い歴史の幕を閉じ...
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2008年11月28日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第9回「秤座 守随商店」
広小路通りが、本町通りと接する北側に木造三階建ての建物が偉容を誇っていた。他の建物を圧するかのように、広小路に面して建つ、この建物は秤屋の守随商店であった。 広小路通りで、最も古い歴史をもつ守随商店の前に、明治二十九年(一八...