沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」
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2009年11月13日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第3回「唐子車」
『尾張年中行事絵抄』に、次のような記述がある。 惣て町々の天王祭は朔日頃より五日、六日に至る。其内に此下納屋裏なる中之切は八日九日頃にあり、此時内屋敷より車をかざりて中之切の天王へ引なり。その道すがら俄思ひつきをなす。或年京...
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2009年11月6日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第2回「逍遥の愛した料亭」
坪内逍遥は、少年時代を名古屋で過ごした。 彼の生まれは、岐阜県美濃加茂市太田町である。明治二年、住み慣れた太田を離れて、逍遥の一家は名古屋に移住してきた。 逍遥と名古屋との係わりは深い。後にシエクスピアの研究家として、劇作家として...
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2009年10月30日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第1回「加藤商会ビルとカブトビール」
江戸時代、堀川に架けられた七橋のうち最も親しまれ、最も通行人が多いのは、名古屋のメイン・ストリートの広小路に架けられた納屋橋である。納屋橋は、慶長15年(1610)、遷府した際に架けられた橋だ。 納屋橋の中央には、バルコニー...
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2009年10月23日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第10回「広小路のヤナギ」
銀座に対する憧憬は、歌によって醸しだされている部分が大きい。戦前では、「むかし恋しい銀座の柳、あだな年増のあで姿……」と誰もがこの歌を口ずさんで、どんな遠隔地にいる人でも、一度は銀座に行ってみたいと思ったものだ。戦後、銀座から柳の...
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2009年10月16日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第9回「広小路のビルが曳かれてゆく」
テレビ放送が地上波からデジタル波に移行する。それとともにテレビ電波の発信を続けてきた名古屋テレビ塔も、その役割を終えることになる。 テレビ塔が久屋大通りの上にその勇姿を現したのは、昭和二十九年であった。 高さ百八十メートルの...
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2009年10月9日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第8回「地下はラッシュ、広小路はガラガラ」
友人とよく連れだって、広小路を散歩する。名古屋駅前に来ると、ミヤコ地下街に入る階段を思わず降りてしまう。駅前の地下街はJRや名鉄、近鉄の乗り場に通じていて便利だ。しかし、電車に乗るために階段を降りたのではない。 地下街には、...
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2009年10月2日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第7回「途中の喪失」
明治三十一年、京都に次いで、全国で二番目の電車が笹島と栄町の間に開通した。電車の開通は広小路に賑わいをもたらした。多くの人々が広小路に集まり、広小路を歩いた。 昭和十年代に入り、広小路を走る市電は満員の乗客で混雑をきわめていた。ひ...
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2009年9月25日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第6回「広小路の映画館」
名宝会館と道を隔てて東側に建っているのが朝日新聞のある朝日会館だ。朝日会館は石川純一郎の設計により、昭和十年に竣工した。硝子張りの塔を建物の上に載せたモダンな建物が、広小路を通る人々を驚かせた。朝日会館も幸いにして、戦火を免れるこ...
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2009年9月18日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第5回「広小路にあった笑いの殿堂」
すし詰めの劇場の中で、息をこらして舞台に立つ芸人を見つめていた。昭和三十年代の前半、劇場はいつも超満員であった。今は洒落た店が立ち並ぶ納屋橋川畔の西北角に、二つの劇場が建っていた。 通りを隔てて建つ劇場の名は、富士劇場と中央劇場と...
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2009年9月11日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第4回「丸く栄える」
丸栄百貨店の前を通り、明治屋に向けて歩いてゆく。歩道の端には、明り取りがついている。明り取りはバス停の前まで続いている。百貨店の建物は、明り取りが付いている部分だけ、わずかに歩道にせり出している。明り取りが付いている部分は、旧三星...