沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」
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2009年9月4日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第3回「オリエンタル中村興亡史」
名古屋には清須越以来の由緒ある商家が多い。時代の流れのなかで、それらの商家はいつしか姿を消していった。 本町通りに店を構えていた呉服店の変遷にも、すさまじいものがある。創業者の子孫が永々と店を護ってゆくのは至難のわざのようだ。子孫...
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2009年8月28日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第2回「進駐軍が広小路を闊歩する」
広小路がアメリカの進駐軍に占領されていた時代があった。 中西董の『米英占領下の名古屋』に、進駐軍の命令書が数多く紹介されている。その中に名古屋市長名で、「乗客に警告」という一枚がある。警告文は次のとおりだ。 名古屋観光ホテル...
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2009年8月21日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第1回「闇市」
戦後しばらくの間、白衣をまといアコーディオンをひく、片手や片足の傷痍軍人の姿をよく見かけた。納屋橋の上でも、道行く人に金銭の施しを乞う姿がみられた。戦争の傷跡は一面の焼野原となった街の光景だけでなく、人間の内面にも深い傷を落として...
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2009年8月14日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第10回「昭和二十年三月十九日 広小路」
いつしか、腹の中に轟くようなB29の爆音も、ヒュルヒュルと不気味な焼夷弾の落下音も遠くなっていた。死を覚悟してコンクリート壁に一家の命を託した、長く恐ろしい夜が白んだ。あれほど、地獄の業火のように、ほしいままに燃えさかっていた火、...
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2009年8月7日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第9回「突貫時間」
平成十年に納屋橋の上で、生徒と一緒になり三時三十分より四時三十分までの一時間の通行人調査を行なった。栄町方面から名古屋駅の方に納屋橋を通行する人は男五〇八人、女二三〇人の七三八人であった。名古屋駅方面から栄町に向けて納屋橋を通行す...
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2009年7月31日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第8回「駐車場になった徴兵館ビル」
名古屋で、もっとも人通りが多く、賑やかな中心地はどこかと尋ねられたら、どの地点をあげるであろうか。高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅前をあげる人もいるであろう。あるいは、栄町の三越前をあげる人がいるかも知れない。戦前はまぎれもなく、名古屋...
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2009年7月24日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第7回「広小路ホテル事情」
明治三十五年に刊行された『愛知県独案内』という本がある。そのなかに有名旅館料理店の宿泊料、昼食代が掲載されている。 宿泊代のもっとも高い旅館は、現在明治屋の建っている地にあった秋琴楼だ。上等は一円五十銭、中等は一円、下等は七十五銭...
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2009年7月17日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第6回「映画の街の名宝会館」
名宝劇場、正式には名古屋宝塚劇場が広小路に開館したのは、昭和十年十一月三日であった。十一月一日付の名古屋新聞夕刊に、開館記念公演の広告が載っている。 中京に新生の大歓楽境 家庭共楽の殿堂! 東宝が誇る娯楽の合理化 暖冷房完備...
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2009年7月10日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第5回「赤い灯青い灯の広小路」
高島田に結った芸者が、広小路通りを歩いてゆく。現代では想像もできないことであるが、戦前の広小路には、多くの置屋があり、何百人もの芸者がいた。昭和十四年刊行の『名古屋案内』に広小路の芸者のすばらしさを紹介した次のような文がある。 ...
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2009年7月3日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第4回「赤い風車」
昭和四十年代、数多くのキャバレーが広小路界隈に点在していた。はなやかなネオンサインに誘われて、多くの酔客がキャバレーにすいこまれていった。脂粉の甘い香りと紫煙が場内にたちこめるなか、舞台では歌謡ショーが行なわれていた。 キャ...