沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」
-
2009年6月26日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第3回「鬼より黒く恋より甘いブラジルコーヒー」
昭和十四年に刊行された『百万名古屋』に、広小路を紹介した次のような文が載っている。 広小路―― ブロウド・ウェイはニューヨークの、否アメリカの都会では、必ずメーンストリートとして存在する繁華な大通りである。 そのブロウド・...
-
2009年6月19日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第2回「広小路商店街」
昭和四年五月調の『名古屋市居住者全図』を見ている。現在の中区役所の界隈は、当時は広小路通りの北に愛知県庁があった。県庁の東隣には、愛知県警察部があり、警察の南側には、広小路に面して新栄警察署が建っていた。県庁と広小路通りをはさんで...
-
2009年6月12日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第1回「どて焼きとみたらし団子」
縦の幹線道路、本町通りには名古屋の有力商店が軒を並べていた。本町通りに店を構えることは名古屋商人の誇りであった。 横の幹線道路、広小路通りは、江戸時代から人々の憩いの場であった。本町通りにはみられない、人々の憩うことのできる...
-
2009年6月5日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第10回「広小路ことはじめ」
大正元年の名古屋市の戸数は、九万四八九六戸、人口は四三万五二九人であった。 大正時代の名古屋の幕開けは、台風の襲来によって始まった。九月二十三日、午前五時から風速四十メートルの強風が吹き始めた。死者三十二人、家屋の倒壊は四十戸に及...
-
2009年5月29日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第9回「大正時代の映画館」
名宝会館が解体されるとともに、名古屋に現存していた最も古い映画館、納屋橋劇場も姿を消してしまった。解体される前は、納屋橋劇場は成人映画を上映していた。劇場の前には扇情的なポスターが張られていて、その前を通るのも何か面はゆい感じがし...
-
2009年5月22日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第8回「南大津通りの松坂屋」
広小路通りと本町通りの交差する地点は、かつては名古屋の中心地であった。 大正十四年一月二十七日、わずか一坪の土地が三千百五十円で売られた。買手は中村呉服店である。中村呉服店は、この年まで広小路通りから東側北へ二軒目で商売をしていた...
-
2009年5月15日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第7回「韋駄天人力車」
本町通りと広小路の交差点に道路元標が建っている。道路の基点を示す標石である道路元標は大正八年(一九一九)に、当時制定された「道路法」によって、各市町村に一か所ずつ建てられた。設置場所は東京都だけは「日本橋中央」と決められたが、他の...
-
2009年5月8日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第6回「パンといえばシキシマ」
明治維新は、従来の価値観を根底から覆した時代である。衣食住のすべてにわたり、変革を強いられた時代でもある。旧来の慣習に浸り、変革を受け入れようとしない人々。それに対して、いちはやく西洋の流儀を取り入れ、時代の波に乗りおくれまいとす...
-
2009年5月1日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第5回「広小路の騒動」
新聞が世論を形成し、新聞記者が市民の先頭に立って社会の矛盾や腐敗と対決していた時代があった。新聞は大企業や時の権力者に阿る機関ではなく、正義をかざし、不正を追及する機関であった。しかし、あまりにも世論が沸騰すると、時にはゆきすぎた...
-
2009年4月24日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第4回「広小路にそびえる摩天楼」
名古屋駅前に超高層ビルが空高く聳えている。名古屋駅から出て来た人々は、一瞬立ち止まり、眼の前に現れたビルを仰いでいる。 大正五年(一九一六)、広小路に摩天楼が出現した。名古屋駅前の摩天楼を仰ぐ平成の人の驚きよりも、広小路に初...