沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」
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2008年11月21日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第8回「小宮山宗法」
『尾張名所図会』巻一に「本町六丁目小宮山宗法店」の図が載っている。小宮山宗法店は売薬店で、図には中風を治す妙薬の烏犀円の看板が大きくかかげられている。店の前の本町通りを往来する人々の表情もなごやかなものだ。笠を手に持ち、荷物を背に...
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2008年11月14日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第7回「名古屋の宣長」
“我宿は尾張の名古屋広小路 ほんまち西へ入南側”この歌の作者は植松有信だ。現代ならば、名刺に住所を刷って渡すことを、有信は歌によって、自分の家の場所を伝えている。名古屋広小路本町西、南側といえば柳薬師が建っている場所だ。その柳薬...
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2008年11月7日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第6回「厄払いしましょう」
火除地のために造られた広小路が、蒲焼町から出火した火事のため、大混雑する事件が起きた。 天保三年(一八三三)十一月一日のことだ。時間は明け方の四時少し前。出火場所は本重町と蒲焼町の間の新長屋だ。引越しをしてきたばかりの長屋の住人の...
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2008年10月31日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第5回「名古屋寄席ことはじめ」
高力猿猴庵は実に筆まめだ。町に起った出来事を書き記すだけでなく、見世物・芝居興行も丹念に記録している。『金明録』を読めば、名古屋芸能史の一端をたどることができる。 広小路で興行された話芸を『金明録』から抜き出してみよう。文政元年(...
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2008年10月24日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第4回「犬が広小路から消えた」
『正事記』によれば、万治三年(一六六〇)の大火により、火除地としての広小路ができる以前のこの辺は「これより以南、田野松原なりしゆゑに、山犬などの出て捨て子を食ひしことあり」という状態であった。狼が出没し、人の寄りつかない草深い荒地...
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2008年10月17日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第3回「柿木金助 牢を破る」
清須越によって、多くの神社が名古屋に移ってきた。そのうちの一つ、清須の朝日町から移ってきたのが神明社だ。この神社の透垣は広小路通りに面して建っている。通りを隔てて、住吉町筋と本町通りとの間に、江戸時代には牢獄があった。罪人は、広小...
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2008年10月10日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第2回「手弱女(たおやめ)か腰も柳の薬師さま」
享和二年(一八〇二)六月十二日、『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴が、物見遊山の旅で名古屋を訪れ、十五日間滞在する。その時の感想が『羇旅漫録』の中に記されている。広小路についての記述は次の通りだ。 夏の暑い日、人々が涼みに出...
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2008年10月3日
沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第1回「左義長火事」
藩主が東海道を参勤交代で江戸に上る時、家臣たちは、本町通りを広小路まで出て、ここで見送りをするのがしきたりであった。広小路通りは、碁盤割の町はずれの通りであり、名古屋の南の境をなす通りであった。 幅十五間(二十七メートル)と...