沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第1回「豪力の和尚が持ち帰った門扉──西来寺」

豪力の和尚が持ち帰った門扉──西来寺

西来寺 山門

西来寺 山門

西来寺の庭に立って、外をながめる。山門の上部の透しの扉を通して、外の通りを見ることができる。山門を出て、外から寺の中を見ても、門扉で、中を見ることができない。

他の寺院の門扉と異なり、この寺の門扉は武家門扉である。扉の上の部分に縦の桟を五本打っただけの透しとなっているので、外を寺の中から見ることができるのだ。この寺の門扉にまつわる逸話が伝わっている。

享保年間(一七一六~一七三五)のことである。西来寺の首座(しゅそ)(禅宗で、一山大家中の首位の者)に開田和尚という豪力の僧がいた。名古屋城に所用があって出かけた。御深井丸の庭を歩いていた時だ。庭に門扉が捨ててあるのを見つけた。

「寺には門扉がない。この門扉を寺の門扉として持ち帰ることはできないだろうか。」と開田和尚は考えた。庭の番人に聞いてみると西北隅櫓(旧清州城)の門扉が不用になったので捨てたものだという。「寺の門扉に使いたい。頂けないだろうか」と和尚は番人に頼んだ。「何枚ほしい」と番人が聞く。「もちろん一枚だけでよい」番人は「二枚、しかもひとりで持ち帰るならば、この門扉をあげよう」という。

重い門扉は、ひとりで一枚を持つことも難しい。持ちあげることさえ難儀であるのに、それを担いで寺まで持って帰ることは至難のことだ。二枚を持って帰ることは、誰もできない。難題を出せばあきらめるだろうと番人は、二枚を持ち帰るならばと条件を出したのだ。開田和尚は、「持って帰ります」となにげなく言って、門扉を軽々と持ち上げて、呆然としている番人を尻目に悠々と立ち去った。

山門の武家門扉。扉の上の部分に縦の桟を五本打っただけの透しとなっている

山門の武家門扉。扉の上の部分に縦の桟を五本打っただけの透しとなっている

安永三年(一七七四)に、鐘が鋳造された。すばらしい音色の鐘で近隣に鳴り響いていたという。

「私の子供頃、西来寺の梵鐘が朝夕つき鳴らされ、師団のドン(午砲)と共に時を告げたのは懐かしい思い出の一つです」(『金城の遺蹟・史話』三谷政明)

この鐘も太平洋戦争に応召されて、寺から鐘の音は消えてしまった。

昭和四十四年(一九六九)、新しく鋳造された鐘が、明治三十八年(一九〇五)に建立された鐘楼に吊された。開田和尚の門扉で名高い西来寺の開基は、遠く明応四年(一四九五)にさかのぼる。真言宗、地蔵寺として祐禅阿闍梨が、今の名古屋城正門西北付近に建立した寺である。本尊は弘法大師作と伝えられる木像の地蔵菩薩である。

その後、荒れるがままになっていた寺を慶長(一五九六~一六一四)の初めに楽甫和尚が真言宗を曹洞宗に改め、寺号も西来寺とした。名古屋城築城とともに、寺も現在の田幡の地に移ってきた。尾張藩四代藩主徳川吉通の乳母は、五世住持伝宗和尚の母であった。その縁で、寺は尾張藩から特別の厚遇を寄せられた。西来寺は戦火をまぬがれたので、円覚院(吉通の戒名)の遺品が寺に大切にしまわれている。

西来寺 境内

西来寺 境内

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