沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第5回「関貞寺」

関貞寺

関貞寺

関貞寺

今は、建物に隔てられ何も見ることはできないが、明治の終わり頃までは美濃、越前、加賀、近江、三河、信濃、尾張北部の七州が一眸に収められたので、関貞寺の書院は七州閣と称せられていた。

『尾張名陽図会』に

関貞寺は大曽根の坂上にして書院より北の方の見はらし殊に興あり。爰を名陽にての絶景として名古屋三景とも云へり

と記されているほど眺望絶佳の地に建った寺院であった。

明治二十八年(一八九五)、伊藤博文は桂太郎と共に関貞寺を訪れ、七州閣からの眺望を楽しんだ。求められて額に「松声禅榻」と書き、七言絶句をしたためた。

   七州風景落眉間  前古英雄呼不還
   欲起猿郎聞得失  皇威今已及台湾

日清戦争に勝利した高揚した気分が感じられる漢詩である。

寺伝によれば、関貞寺は寛永七年(一六三〇)十二月、薩摩の国の実山関貞和尚が建立した寺であるとしている。もともとは片山八幡の松林の中に建っていた観音堂を移して修営したものであるという。本尊は仏師、春日作の木造の十一面観音。長谷寺観音と同木同作であるという。

『尾張神名帳集説訂考』に次のような記述がある。

大曽根八幡の地は旧は村落の産土神なりしに元禄中瑞龍院光友卿江戸より高田の穴八幡を爰に祀らせ給ひて慶徳氏を八幡宮の社人と定め本地仏の観音堂をも西の方へ引て関貞寺といふ禅刹に成しより以来村民は厳重なるに恐れて同所の天道社に産土神を更へたりといふ。

慶徳氏というのは尾張二代藩主光友の従弟である。伊勢の国からわざわざ呼んで八幡宮の社司とした。 関貞寺も移住させ、慶徳を伊勢の国より呼び寄せるなどして、村の産土神が光友のためにすっかり変わってしまった。あまりの厳重さ(おごそかで、重々しいこと)に、恐れをなして、大曽根の村人は産土神を天道社(赤塚神明社)に変えてしまったのである。

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